軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第152話:『大海原の誤算』

リナが船から消えたことなど、デニウスは夢にも思わなかった。

彼の乗る商船『海燕』は、サンタ・ルチアから陽光を背に受け、予定通り滑り出す。カモメの甲高い声が次第に遠ざかり、船は外洋の穏やかなうねりにその巨体を任せた。船長室の円窓の外には、どこまでも碧い南海の景色が広がっている。潮の香りが、彼の苛立ちをわずかに和らげる。

だが、心の凪は訪れない。

脳裏に焼き付いて離れないのだ。氷のように冷たい声と、射抜くような軽蔑の瞳が。信じていた者に裏切られた、深い悲しみと困惑の色が。もう一度あの顔を見るのが、怖かった。

「……まずは聖王都の拠点で最新の情報を集める。国王陛下のご容態が最優先だ。あの子からの手紙も届いているやもしれん」

自分に言い聞かせるように低く呟き、革張りの椅子のアームレストを握りしめる。指の関節が白く浮き上がった。

「そうだ。己の大義を固め直すのだ。時間をかけてゆっくりと手懐ければいい。我らの大義と、その対価を理解させれば、あの娘は必ず協力する」

彼の頭の中では、全てが計画通りに進むはずだった。

少女を見た目で侮り、自らの罪悪感から目を逸らし、大海原という鉄壁の檻に慢心する。その全てが、取り返しのつかない致命的な誤りであることに、彼はまだ気づいていなかった。

◇◆◇

その日の午後。

船は『シャングリラ聖王国』の首都、『聖王都 蓮華(レンファ) 』の港へと、重々しく錨を下ろした。ヴェネツィアの混沌とした活気とは違う、荘厳で敬虔な空気が満ちる街。白亜の尖塔が天を突き、潮風に乗って、どこからか穏やかな祈りの歌が流れてくる。

デニウスは甲板に船員たちを集め、厳かに告げた。

「補給と情報交換のため、明日から三日ほどここに滞在する。……だが、例の積み荷のことは誰にも口外するな。聖王国に嗅ぎつけられれば、全てが水泡に帰す。いいな?」

船員たちの間に、緊張とも弛緩ともつかない空気が流れた。

◇◆◇

翌朝。

意を決したデニウスは、リナとの本格的な「交渉」に臨むべく、彼女の船室へと向かった。その手には、機嫌取りのための上等な果物を山と盛った銀の盆が、ずしりと重い。冷たい金属の感触が、彼の汗ばんだ手にやけに不快だった。

薄暗い船内通路を、船の軋む音だけが満たしている。

目的の扉の前で立ち止まり、一つ、息を吸った。

コン、コン。

「……聖者殿。入るぞ」

返事はない。

厚い扉の向こうの静寂が、じっとりと肌にまとわりつくようだ。

彼はゆっくりと鍵を回す。カチャリ、と乾いた金属音が響いた。

軋む扉を、押し開く。

そして――。

「…………な……」

そこは、もぬけの殻だった。

船室の冷たい空気が、彼の熱っぽい頬を撫でていく。

きちんと整えられたベッドの上には、夕食が、置かれているだけ。窓にはめられた鉄格子に、歪みはない。そして今しがた己が開けた扉の鍵が、壊された形跡もなかった。

「……消えた……?」

喉から、か細く絞り出すような声が漏れた。

視線が、冷え切った食事の上を滑る。

その瞬間彼の頭の中で、全ての辻褄が狂った形で組み上がった。

ガシャン!

盆が床に叩きつけられ、熟れた果実が惨めに砕け散った。甘い香りが、彼の絶望を嘲笑うかのように立ち上る。

彼は獣のように踵を返し、床を蹴って甲板へと駆け上がった。そこにいた全ての船員を呼び集め、顔から血の気を失わせたまま、わななく唇で怒鳴りつけた。

「昨晩、あの娘を見た者はいないか! 正直に言え! 見逃したとあらば、どうなるか分かっているだろうな!」

だが、船員たちは怯えたふりをしながらも、誰一人として彼と目を合わせようとしない。リナに与したルドルフやコック長は、見事な演技で首を横に振る。

「さあ……? 全く気づきませんでしたな。昨晩は嵐もひどかったですし……」

「お、恐れながら旦那様」別の船員が、わざとらしく付け加えた。「……あのお嬢ちゃん、もしかしたら何か、とんでもねぇ『術』でも持ってたんじゃねぇですかい? ……壁でもすり抜けて、海の上でも歩いて行っちまったとか……」

荒唐無稽な言葉だ。だが、今のデニウスには反論する力もなかった。

彼はリナが起こした「奇跡」をこの目で見ている。彼女が人知を超えた力を持っていても不思議ではない。そう思ってしまったのだ。

「……くそっ……! ありえん……!」

デニウスは側近たちと手分けして、聖王都の石畳を靴底がすり減るほど歩き回った。

だが、リナはそもそもこの都にはいない。

数日間の捜索は虚しい空回りを続け、時間だけが砂のように指の間からこぼれ落ちていく。彼の焦燥は、やがてどす黒い絶望へと変わっていった。自らの油断が招いた最悪の事態に、彼はただ歯ぎしりするしかなかった。

そして。

彼が無駄な時間に身を焦がしている、まさにその時。

聖王都の港に、一隻の流線形の美しい船が、音もなく滑り込んできた。帝国の紋章が、朝陽を浴びて鋭く輝く。最新鋭の高速艇だ。

タラップが下ろされ、まず現れたのは聖女マリア。彼女は固く唇を結び、その瞳は遥か先を見据えている。隣に立つ衛士長ライナーの横顔には鋼の意志が宿り、セラとゲッコーの表情には、これから始まる戦いへの覚悟が深く刻まれていた。

彼らを乗せた船を守るのは、ロッシ中将の腹心にして狡猾な海軍策略家、エンリコ・ダンドロ少将。年の割に深く刻まれた目尻の皺と、全てを見透かすような鋭い眼光が、彼の老獪さを物語っていた。