作品タイトル不明
第151話:『失われた光』
― あの日、降りやまぬ雨の記憶 ―
束の間の平穏は、嵐の前の凪に似ていた。静かで、そしてひどく脆い。
ヴォルフラムが十一歳になった、ある雨の夜。
その悲劇は、唐突に牙を剥いた。
その日、イリアは珍しく熱を出し、藁の敷かれた粗末な寝床で浅く、苦しげな呼吸を繰り返していた。
時折漏れるか細い呻き声が、ヴォルフラムの胸を締め付ける。彼女はつきっきりで、祈るように小さな妹の看病にあたっていた。冷たい水で絞った布を熱い額に何度も乗せ替え、汗ばんだその手を両手で包み込むように握りしめる。外では、世界の終わりを告げるかのように激しい雨が、廃屋の窓を容赦なく叩きつけていた。
――ドォンッ!
雷鳴と間違えるほどの轟音が響き、粗末な扉が木片を撒き散らしながら内側へ弾け飛んだ。
吹き荒れる雨風と共に、闇そのものがなだれ込んできたかのようだ。潮と錆、そして濡れた獣の臭いを纏った屈強な男たち。その目は、そこらのチンピラが浮かべる虚勢ではない。命のやり取りに何の感情も抱かない、底なし沼のような、本物の海賊の目だった。
「――見つけたぞ。『奇跡の小娘』はこいつだな」
リーダー格の男が、歪んだ唇の端から金歯を覗かせる。腐肉を漁るハイエナのような笑み。そのねっとりとした視線が、苦しむイリアの寝床に突き刺さった。
その瞬間。
ヴォルフラムの中で、張り詰め続けていた何かが、甲高い音を立てて切れた。
世界から音が消える。降りしきる雨音も、イリアの荒い息遣いも、全てが遠のいていく。ただ、妹を守らなければならないという、燃え盛る本能だけが全身を支配した。
壁に立てかけてあった火かき棒を鷲掴みにする。冷たい鉄の感触が、逆流する血をさらに沸騰させた。
「イリアにッ、触るなァァァァッ!」
少女のか細い喉から放たれたとは思えない、魂を削るような絶叫が迸る。
それはもはや、喧嘩などという生易しいものではなかった。
死闘だった。
だが、十一歳の少女の力はあまりにも無力だ。それでも彼女は、闇雲に鉄パイプを振り回した。男の頭蓋を砕くつもりで叩きつける。肉を打つ鈍い音、骨が軋むおぞましい感触。奥歯を砕けんばかりに食いしばり、返り血で濡れた顔のまま、獣のように爪を立てた。
一人の顎を砕き、呻き声と共に崩れ落ちさせる。
もう一人の鳩尾に突きを入れ、胃液を吐かせる。
そして、三人目の腕に獣のように喰らいつき、肉を食いちぎった、その刹那。
世界が反転するような衝撃が、背後から彼女を襲った。
脳を直接揺さぶられる轟音と閃光。誰かが振り下ろした棍棒の一撃だった。
「ぐ……はっ……!」
肺から灼けつくような痛みと共に空気がすべて絞り出され、呼吸ができない。視界の端から急速に闇が滲み、最後に残った赤い光の中で、悪夢が映し出された。
骨を抜かれたように、ヴォルフラムの小さな体は床に崩れ落ちる。
薄れゆく意識の中、彼女は見た。
「――いやあああっ! ヴォルちゃん、助けてええっ!」
泣き叫ぶイリアが、抵抗も虚しく麻袋のように男の肩に担がれる。
叩きつける雨が、そのか細い後ろ姿を滲ませ、闇の中へと掻き消していく。
「……い……り……あ……」
伸ばそうとした腕は、泥濘に沈むように指一本動かせない。
喉から漏れるのは、声にならない空気の音だけ。
ただ、己の無力さが魂に焼き印のように刻み込まれる。大切な光が、深い闇に飲み込まれていくのを、見ていることしか、できなかった。
◇◆◇
「――ヴォルフラムッ! しっかりしろ!」
駆けつけたロッシ中将が目にしたのは、血の海に沈むヴォルフラムの姿だった。海賊らしき男達が、ヴォルフラムの暮らしている辺りで何かを探してうろついているという情報を聞きつけ、最悪の事態を危惧して駆けつけたが、一歩、遅かった。
軍の医務室で数日間、生死の淵をさまよったヴォルフラムは、奇跡的に一命を取り留める。
その海賊たちは足取りを追う事で、壊滅まで追い込むことが出来た。
だが、彼女の心は壊れてしまっていた。
「……私が……。私が、もっと強ければ……!」
ベッドの上で、彼女は何度も何度も同じ言葉を繰り返し、自らの無力な腕を、痣ができるほどに殴り続けた。
「強いと思ってた……! 守れると、思ってた……! ……どこがッ!」
その慟哭は、聞く者の胸を締め付け、病室の空気を鉛のように重くした。
数日後。
顔に深い疲労の色を刻んだロッシが、再び病室を訪れた。
「……すまない、ヴォルフラム。……海賊団は、根城ごと殲滅した。だが……」
彼はそこで、一度言葉を詰まらせた。
「……イリアの行方は、分からなかった」
捕らえた下っ端の、最後の証言を伝える声は、ひどく乾いていた。
「『言葉の通じない異国の商人からの依頼だった』と。ヴェネーリアの港で彼女を引き渡し、大金を受け取ったらしい。……そこから先の足取りは、ぷっつりと途絶えている……」
その残酷な真実に、ヴォルフラムはもう泣き叫ぶことさえしなかった。
ただ、虚ろな目で、染み一つない白い天井をじっと見つめている。
光を失ったその瞳は、あまりにも痛々しく、誰の言葉も届かない深い淵を覗かせているようだった。
◇◆◇
その日から、ヴォルフラムは変わった。
笑うことも、泣くことも、感情の全てを捨てた。
ただ己を罰するかのように、骨の軋む音も構わずに、自傷ともいえる訓練に明け暮れる。
その鬼気迫る姿を見かねたロッシは、ある日、彼女に告げた。
「――北へ行け、ヴォルフラム」
「……え……?」
「シュタイナーという鬼がいる。……そこならば、お前は本当の『強さ』を手に入れられるだろう」
彼はヴォルフラムの肩を、その骨に自身の覚悟を刻みつけるかのように強く掴んだ。
「イリアーヌのことは、俺がこの命に代えても探し続ける。だから、お前は強くなれ。……二度と、何も失わないために」
それが、彼女の新たな道の始まりだった。
ただひたすらに、強さだけを求める孤独な旅。
彼女はその時、心の奥底で静かに誓ったのだ。
【そして、現在】
ヴォルフラムの意識が、鎮痛な過去の底からゆっくりと浮上する。
重く沈んでいた思考が現実の光に引き戻されていく。
目の前に広がっていたのは、どこまでも鮮烈な南の海。
その碧の向こう、陽光に焼かれた大地の上に、彼女の全てが始まり、そして全てを失った街『アクア・ポリス』が、揺らめいていた。
彼女は馬を止め、丘の上から眼下に広がる故郷の港町を見下ろす。
十年という歳月。
家々の連なりは姿を変えていたが、肌を撫でる風が運ぶ潮の香りは、あの頃と変わらない。
だが、彼女はもう、あの日の無力な少女ではなかった。
北の大地は、彼女に鋼の肉体と、何よりも決して折れぬ鋼の心を鍛え上げさせた。
それでも。
心の奥深く、抉られた傷は今も生々しく熱を持ち、故郷の景色がそれを容赦なく疼かせる。
彼女は静かに馬を進めた。
自らの過去と、そして定められた未来と、真正面から向き合うために。
アクア・ポリスの門が、ゆっくりと姿を現す。
分厚い石壁が落とす濃い影の前で、彼女は一度だけ手綱を引き、天を仰いだ。空は憎らしいほどに青い。
(……イリアーヌ……。……そして、リナ様………今度こそ、私は……)
強く引き締められた手綱が、彼女の手の中で軋む。
伏せていた顔が上がり、その瞳にはもはや一片の迷いもなかった。