作品タイトル不明
第144話:『潮霧に灯る奇跡』
リナが奪われ、三度目の夜が来た。
昼間の喧騒など遠い夢。港町『ポルト・アウレオ』は深い静寂と、肌を濡らす冷たい潮霧に沈んでいる。寄せては返す鈍い波音だけが、世界の輪郭をかろうじて繋ぎとめていた。
裏通りにひっそりと佇む宿の一室。
軋む床も、分厚い壁も、外の気配を完全に遮断している。テーブルに置かれた蝋燭の炎だけが心もとなく揺れ、そこに集う者たちの深刻な横顔をぼんやりと照らし出していた。
聖女マリア。衛士長ライナー。そして帝都から馬を乗り継ぎ、眠りさえ忘れて駆けつけたセラの顔には、深い疲労が刻まれている。
その向かいには、血の滲む包帯を痛々しく巻いたゲッコー。彼の背後で仲間たちが苦しげに息をつき、沈痛な面持ちのクラウスが唇を固く結んでいた。
重い沈黙を破ったのは、マリアだった。
「――痛ましいお姿ですわね」
その声は、痛みを分かち合うような悲しみを帯びている。彼女の澄んだ瞳が、ゲッコーの包帯に注がれた。リナが最後に振り絞った不完全な奇跡がなければ、彼らは今ここにいない。だが、狂戦士バルドルの 強烈な一撃は、砕けた肋骨と深い裂傷という、おぞましい爪痕を残していた。
彼らは決して弱音を吐かない。だが、血の気を失った顔色と、噛み殺した呻きに震える肩が、耐えがたい苦痛を雄弁に物語っていた。
「ですが、もうご心配には及びません」
侍女が捧げ持つ器から、清らかな水が銀の杖の先端にある水晶へと、静かに注がれていく。
マリアの呟きは、確信に満ちていた。
水晶が水で満たされた瞬間、彼女は杖をゆるやかに一振りする。
シュゥ……。
澄んだ水琴窟のような音が響き、部屋に微細な水の霧が舞った。霧は蝋燭の光を乱反射させ、埃っぽい宿の一室が、まるで月下に佇む神殿のように幻想的な輝きに包まれていく。
「――エリア・ヒーリング」
凛とした声が、静寂を切り裂いた。
言葉に呼応し、空気中の無数の水粒子が一斉に優しい青白い光を放つ。
きらきらと輝く光の粒子が、意思を持つ蝶の群れのように舞い、ゲッコーと仲間たちの体へと吸い込まれていった。
「おお……っ!」
「……傷が……痛みが、消えていく……!」
温かい光が、体の内側から満たしていく。あれほど全身を苛んでいた激痛が、春の雪解けのようにすうっと引いていく。皮膚の下で砕けた骨が軋みながら繋がり、引き裂かれた筋肉がゆっくりと癒合していく。生命そのものが再生していく、神聖な感覚だった。
マリアは数分の間を置き、その奇跡を三度繰り返した。
光が収まった時、ゲッコーたちの体から傷はおろか、血に汚れた包帯の血までもが幻のように消え失せていた。彼らは信じられないといった面持ちで、自らの体を何度も確かめている。
「……ふぅ。少し、疲れましたわね……」
マリアの額には玉の汗が滲み、呼吸がわずかに乱れている。彼女は無意識に、懐にある優美な装飾の水瓶にそっと触れた。その奇跡は万能ではなく、確かな「代償」を伴うのだ。
セラは、仲間を救った聖女の気高い横顔に、深い畏敬の念を抱かずにはいられなかった。
(グランからいただいたこの水は、大切にしなければ。これは少量でも効果が高いですし)
再び、部屋に静寂が戻る。
だがそれは先程までの絶望の色ではなく、覚悟に満ちた張り詰めた静けさだった。
傷は癒えた。
ゲッコーがゆっくりと立ち上がり、固く、強く拳を握りしめる。
その目に宿るのは、もはや痛みではない。燃え上がるような闘志の色だった。