軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第143話:『エメラルドの港、自由への賽』

船底の揺れに身体を預けて四日。澱んだ空気に慣れきった肺が、新鮮な光を求めていた。

塩で白く曇った丸窓の向こう。砕けた宝石のように、陽光がエメラルドグリーンの海面に散らばっている。その眩い輝きの先に、緑深い島影がゆっくりと姿を現した。穏やかな湾に抱かれた港町。陽光を浴びて輝く白壁の家々と、ぬくもりを感じさせる赤茶色の屋根。遠くからでも、人々のざわめきが熱気となって空気を震わせているのが肌で感じられた。

「――あれが『サンタ・ルチア』。『シャングリラ聖王国』へ向かう、ヴェネーリアの中継港です」

食事を運んできた若い船員、ルドルフが囁いた。故郷に病の妹がいるという彼。その瞳から私への警戒はとうに消え、今はただ、憐れみと戸惑いの色が痛々しく揺れている。

私は窓の外の鮮やかな光景から目を離さずに、奥歯をぐっと噛み締めた。

(……ここで降りる)

このまま海の向こうへ連れ去られれば、二度と故郷の土は踏めない。賽は、この港で投げる。

◇◆◇

その夜。揺れるランプの灯が、男たちの険しい顔に深い影を落としていた。

「お願い……私を、ここから逃して」

絞り出した声は、船体の軋む音に掻き消されそうだ。私のあまりに無謀な願いに、ルドルフの顔からサッと血の気が引いた。

「無茶だ! デニウス様に見つかれば、あんたも俺たちも海の藻屑だぞ!」

「お願い、助けて……!」

私は彼と、調理場で心を通わせた数人の船員たちの前に、深く、深く頭を下げた。震える声で訴える。このままでは、二度と家に帰れないのだと。男たちは眉間に深い皺を刻み、重い沈黙の中で互いの顔を見合わせた。デニウスへの恐怖と、目の前で涙をこらえる異国の少女。二つの感情が、彼らの屈強な心を激しく揺さぶっていた。

沈黙を破ったのは、腕に錨の刺青を刻んだ無口なコック長だった。ごつごつした指で無精髭を撫で、彼は静かに、だが腹の底から響くような声で言った。

「……分かった。手を貸す」

その一言が、すべてを決めた。

「あんたには野菜の皮むきを手伝ってもらった借りがある。それに……うちの娘と同じくらいの女の子を、見捨てる事はできねぇ」

男たちはもう何も言わず、ただ力強く頷き合った。その目には、覚悟の光が宿っていた。

◇◆◇

翌朝、船は『サンタ・ルチア』に着岸した。

怒号と鉄が擦れる轟音が響き渡り、騒がしい荷揚げ作業が始まる。その喧騒の中、がっしりとした体躯のバルドルが、忌々しげにデニウスを一瞥した。

「ここまで来りゃ十分だろ。俺は前線拠点に行かねぇとならん。ここで降りる」

吐き捨てるように言うと、彼はタラップが架けられるやいなや、荒々しい足取りで船を降りていった。

その少し前。私のための舞台は、静かに幕を開けていた。

調理場に、鼓膜を突き破るような金属音が響き渡る。

ガッシャァァァァァン!

コック長が、わざと巨大な寸胴鍋を床にぶちまけたのだ。もうもうと湯気を立て、熱いスープが床一面に飛び散る。悲鳴と怒声が上がった。

デニウスの側近たちがその騒ぎに気を取られた、ほんの一瞬。

「(――こっちだ!)」

ルドルフが私の腕を掴み、山と積まれた穀物の麻袋の陰へ引きずり込む。

「息苦しいだろうが、少しだけ我慢しろ!」

袋の口が固く縛られ、視界は瞬時に漆黒に閉ざされた。乾いた豆の匂いが鼻をつき、全身をごわごわした感触が包む。

荷物の一つと化した私は、台車に乗せられ、波止場へと運び出されていく。石畳を揺れる不快な振動。人々の怒号。

やがて台車が止まり、巨大な倉庫の薄暗がりの中、荷物の山の陰に下ろされた。

ルドルフが素早く私を袋から引きずり出す。

「……ここまでだ。あとは一人で行けるか? ……幸運を祈るぜ、リナ」

彼は私の肩を一度だけ強く叩くと、背を向け、足早に消えていった。

荷物の山に身を潜め、息を殺して出口を窺う。荷物改めの衛兵たちが別の荷物に気を取られた瞬間、猫のように身をかがめてその場をすり抜け、どうにか倉庫の外へ転がり出た。

だが、安堵は一瞬。倉庫の周囲には屈強な警備兵たちが鋭い目を光らせている。このままでは見つかる。

私はわざとよろよろと歩き、倉庫の壁際に力なく座り込んだ。両手で顔を覆い、か細い声で泣きじゃくる。

「……うぇ……ん……。おかあさーん……どこ……?」

完璧な迷子の演技。

案の定、見回りをしていた人の良さそうな警備兵が、私の姿に気づいた。

「おや、どうしたんだい、お嬢ちゃん。こんな所で一人で」

「……迷子になっちゃったの……。気が付いたらこんな所で。街に帰りたい……」

「おやおや、危ないじゃないか。よしよし、泣くんじゃない。おじさんが街の入り口まで連れて行ってあげるから」

差し出された大きな、温かい手に、私は小さな手を重ねる。警備兵は何も疑うことなく、厳重な港のゲートを私と共に通り抜けてくれた。

「あ!ここなら判る!おじちゃんありがとう!」

笑顔で手を振って素早く街の雑踏に紛れ込む。一度だけ振り返る。

巨大な船体と、活気に満ちた波止場。

(……逃げ切った)

安堵と同時に、冷たい現実が足元から這い上がってくる。

お金はほとんどない。頼れる者もいない。私は今、全く未知の土地に、たった一人で放り出されたのだ。

感傷に浸っている暇はなかった。

(さて。これからどうする。まずはどこか、都合のいい場所に潜り込まないと)

私はすぐに思考を切り替え、活気に満ちた異国の港町を見渡す。

南国の太陽が、燦々と輝いていた。