軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第140話:『盤上の女王』

夜明け前の冷気が、新生王国の都を深い静寂に沈めていた。

その静寂に抗うように、宰相グランの執務室だけが煌々と灯りを放っている。照らし出されるのは、羊皮紙の山に埋もれた二人の若き指導者の姿。新王アルフォンスと、宰相グラン。インクと古書の匂いが立ち込める中、隈の刻まれた彼らの目元には、濃い疲労が影を落としていた。

張り詰めた空気を、甲高い振動音が引き裂いた。

テーブルに置かれた『囁きの小箱』が、まるで悲鳴を上げるように震えている。

「……セラからだ」

グランは弾かれたように顔を上げ、その箱を掴み取った。帝国からの緊急通信。胸の内を、鉛色の予感がよぎる。

『――グラン宰相! 聞こえますか!』

ノイズ混じりの声は、これまで聞いたこともないほど悲痛に歪んでいた。必死に感情を押し殺そうとするセラの口から、次々と信じがたい事実が叩きつけられる。

リナが、ポルト・アウレオで何者かに攫われたこと。

護衛のゲッコーが、瀕死の重傷を負ったこと。

敵は高度に組織化されていて、リナが攫われるその前の日に、治癒の力を使ってしまったこと……。

「……そん……な……」

グランの手から力が抜け、小箱がテーブルに滑り落ちそうになる。グランをアルフォンスが慌てて支えた。セラの声が、最後の力を振り絞るように懇願する。

『……ゲッコーが、クラウス殿の応援が欲しい、と……。聖女マリア様に、彼の派遣をお願いできないでしょうか……』

通信が途絶え、部屋に再び墓場のような沈黙が落ちた、その時。

グランの背後、影が揺らめいた。

静かな、しかし凛とした声が響く。

「……面白いことになっているようですわね」

いつからそこにいたのか。マリアが、まるで戯曲の開幕を告げるように、平然と佇んでいた。

グランは言葉を失いながらも事の顛末を説明する。だがマリアは眉一つ動かさず、窓の外、白み始めた空を静かに眺めている。やがて、全てを見通していたかのように、彼女はゆっくりと口を開いた。

「……なるほど」

マリアはグランたちに、独自に掴んでいたある大国の内情を明かし始める。南海に浮かぶ宗教国家、『シャングリラ聖王国』。代々『聖者』と呼ばれる、強力な癒やしの力を持つ指導者に治められてきた国。だが現在の聖王は老い、後継者たる聖者は未だ見つからず、国の内情は揺れている。そしてその背後には、『アルビオン』という連合王国の影がちらついている、と。

「リナは治癒の力を公の場で使ってしまった。後ろ盾のない孤児だということも割れている。そして攫われた場所は、海の玄関口ヴェネーリア」

マリアはゆっくりとグランに向き直った。その瞳は、獲物を見定める狩人のように怜悧な光を宿している。

「答えは一つでしょう? シャングリラ聖王国が国の危機を乗り越えるため、リナを新たな『聖者』として拉致した、と」

その完璧な推理に、グランは息を呑んだ。

「まったく、大変な目に遭うものですわね、あの子も。癒やしの力なんて持っていると知っていたら、ヴェネーリア行きなど勧めはしませんでしたのに」

マリアは嘆息してみせる。だが次の瞬間、彼女の唇にはいつもの、したたかな笑みが浮かんでいた。

「――わたくしが、動くしかないようですわね」

『! マリア様……!』

「聖王国にも多少、貸しという名の 縁(えにし) がありますの。直接乗り込んで交渉すれば、あの子を取り戻せるやもしれません」

艶然と微笑み、人差し指を自身の唇に当てる。

「なにより、リナには大きな“借り”がありますもの」

マリアはグランに向き直ると、矢継ぎ早に指示を飛ばした。その声には、迷いのかけらもない。盤面を支配する女王そのものだ。

「グラン、王国のことはしばらくあなたとアルフォンスに任せます。クラウスの件、ちょうどいいですわ。彼は今ヴェネーリア中央で『蜘蛛の巣』を広げているはず。すぐにポルト・アウレオへ向かわせましょう。ライナーもアルフォンスに許可を取りに来るでしょうから、好きにさせてあげて。後進も育っているようですし、問題ありませんわ」

彼女は一呼吸おいて、悪戯っぽく目を細めた。

「それと、ハヤトのこと。彼が凱旋し叙勲されたら、こうお伝えなさい。『マリアが、あなたをお待ちかねよ』と。……あの朴念仁は、わたくしが責任を持って、有効に活用してさしあげますから」

言い終えるや、マリアはドレスの裾を翻し、嵐のように部屋を出て行った。

彼女の頭の中では既に、この最悪の状況を自らの最大の利益へと転換させるための、壮大な盤面が描かれている。

(……待っていなさい、リナ。そしてシャングリラ聖王国。……この聖女マリアが、直々にご挨拶に伺いますわ……)

帝国、王国、そしてマリア。リナ奪還という共通の目的の下、三つの駒が動き出す。

グランはただ、その嵐のような友の背中を見送ることしかできなかった。