軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第133話:『黄金の港、再会の前夜』

長い馬車の旅が終わる気配は、まず匂いからやってきた。

乾いた土埃の代わりに、湿り気を帯びた潮の香りが風に乗って頬を撫でる。やがて、空を裂くようなカモメの甲高い鳴き声が、遠く近くから聞こえ始めた。

そして、丘を越えた瞬間。

私たちの目の前に、それは息を呑むような絶景として現れた。

どこまでも広がる紺碧の海。そこに宝石箱をひっくり返したかのように、色とりどりの建物が陽光を浴びてきらめいている。

商業国家『ヴェネーリア連合』の玄関口。黄金の港町、『ポルト・アウレオ』。

「うわあああああっ!」

「見て、すごい!」

馬車の窓から半ば身を乗り出したトムとアンナが、同時に歓声を上げた。その瞳には、生まれて初めて見る海の輝きと巨大な港町の威容が映り込み、星のようにまたたいている。私もまた、その異国情緒あふれる壮大な景色に、しばし言葉を失っていた。

(……レオ兄ちゃんは、この街で、頑張ってきたんだ……)

厳格な石造りの帝都とは何もかもが違う。自由で、生命力に満ちた空気がここまで伝わってくるようだった。

◇◆◇

街は、混沌とした活気で満ちていた。

肌の色も纏う衣服も違う人々が行き交い、聞いたこともない言語が音楽のように飛び交う。鼻腔をくすぐるのは、異国から届いたスパイスの刺激的な香りと、石窯で焼かれたパンの甘い香り。そのすべてが、帝国の張り詰めた空気とは真逆の、どこか危険で甘美な匂いを放っていた。

ゲッコーさんが手配してくれた、港の喧騒から少し離れた清潔な宿屋に荷物を解くと、私たちは早速「子供たちの社会見学」と称して街へ繰り出した。

「リナお姉ちゃん、あれ見て! 船だ!」

「トム、危ないから走らないの!」

シスター・カリンが呆れたように声を張り上げるが、トムとアンナの好奇心は止まらない。私は三人の後ろから、その微笑ましい光景に目を細めていた。

職人街では、トムがガラス細工の精巧な帆船模型に目を輝かせ、市場では、アンナが山と積まれた色とりどりの砂糖菓子に釘付けになっている。

しばし『天翼の軍師』の重責を忘れ、ただの姉として二人の世話を焼く穏やかな時間が、私の心をじんわりと温めた。

ふと、市場の活気が、遠い日の記憶を呼び覚ました。

孤児院にいた頃。私よりずっと年上だったレオ兄ちゃんは、いつも院長先生を手伝って、市場を駆け回っていた。年の離れた商人たちを相手に一歩も引かず、少しでも安く質の良い食材を仕入れようと交渉する、彼の頼もしい横顔。汗を光らせて値切るその大きな背中を、私はいつも誇らしく見ていた。

彼の商才と誠実さを見込んだ旅の商人が、「君のような若者は、もっと大きな世界で力を試すべきだ」と手を差し伸べたのは、もう何年も前のこと。

レオ兄ちゃんが孤児院からいなくなって、市場の空気が少しだけ冷たくなったように感じた。仕入れは少しずつ厳しくなり、彼の存在の大きさを痛感した。

あの頃の記憶。胸の奥がきゅっと締め付けられるような、甘酸っぱい痛みが込み上げる。

――そんな穏やかな光景の、すぐ裏側で。

私たちの少し後ろを歩く無口な保父さん――ゲッコーさんの鋭い目は、片時も警戒を解いていない。彼の視線は、陽気な街の風景の裏に潜む力関係を冷静に分析していた。

(……衛兵の数が少ない。代わりに幅を利かせているのは、各商会が雇った傭兵か。路地裏から覗く目つき、ベルトに下げたナイフ……。力がすべてを支配する街。厄介だな)

プロフェッショナルな視線が、この街のきらびやかな皮を一枚ずつ剥いでいく。

◇◆◇

その日の夕暮れ。

宿屋の部屋で地図を広げていると、ノックの音と共にゲッコーさんが姿を現した。いくつもの傷が刻まれた顔はいつも通り無表情だったが、その声には確かな手応えが滲んでいた。

「リナ様。レオ殿と連絡が取れました」

「本当ですか!」

思わず立ち上がった私に、彼は静かに頷く。

「はっ。ですが、あいにく本日は『重要な客人』との会談があるため、顔は出せない、と。……今は彼も一介の商人ではありません。……大手商会の一員として、多忙な日々を送っておられるようです」

その言葉に、トムとアンナは期待に膨らんでいた頬をしゅん、としぼませた。構わず、ゲッコーさんは続ける。

「明日の午後三時過ぎ、港が一望できる丘の上のカフェでお待ちしている、とのことです」

「……やったぁ!」

「明日、会えるんだ!」

一瞬で表情を輝かせた二人は、ベッドの上でぴょんぴょんと跳ね始めた。その無邪気な姿に、私も自然と笑みがこぼれる。

◇◆◇

その夜。

私は一人、宿屋の窓辺に立ち、港の夜景を眺めていた。

無数の船のマストに灯されたランプが、まるで地上に降りた星空のように暗い水面に揺らめいている。

(……レオ兄ちゃん……)

孤児院で一番年長で、いつも私たちの面倒を見てくれた、賢くて優しい兄。泣いている私を、大きな手で頭を撫でて慰めてくれた温もりを、今でも思い出す。

彼は今、どんな大人になっているのだろう。

久しぶりの再会を前に、私の胸は期待と少しの不安で高鳴っていた。

その頃。

港に佇む豪華な料亭の一室。

精悍な青年へと成長したレオは、一人の異国の商人と静かに向かい合っていた。

男はデニウス・ラウルと名乗った。その涼やかな顔には人好きのする笑みが浮かんでいる。だが、その瞳の奥には、夜の海のような底知れない深淵が宿っていた。

レオはまだ、知らない。

この男との出会いが、やがて自分の、そして遠い故郷からやってきた妹の運命を、大きく揺るがすことになるということを。