軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第123話:『黄昏の海、沈みゆく船』

ヴェネーリア連合の港に、乳白色の朝靄が立ち込める早朝。運河の水面を撫でる風が、潮の香りと静寂を運んでいた。

だが、『十人評議会』長老ドナート・コンタリーニの豪奢な屋敷では、その静けさを引き裂く怒声が轟いていた。

ガシャン!

甲高い破壊音。異国から取り寄せた貴重な磁器のカップが、磨き抜かれた大理石の床に叩きつけられ、無残な破片となって飛び散った。青ざめた侍女たちは壁の花と化し、息を殺して主の激情が過ぎ去るのを待っている。

「まだ分からんのか! ガスパロの行方は!」

ドナートは血走った目で側近を睨みつけた。喉から絞り出す声は、獣の唸りのように嗄れている。

彼の描いた壮大な絵図は、今や見る影もなく崩れ去った。ロベール伯爵に焚きつけた反乱は、まるで子供の火遊びのように、あっけなく王国で踏み潰された。傭兵組合長のガスパロは敗走し、闇に消えた。

そして何より忌々しいのは、あの若造、マルコ・ポラーニだ。帝国の後ろ盾を得て、大陸の未来を塗り替えるような途方もない事業に乗り出したという。

全てが、何もかもが、己の思惑とは真逆の濁流となって押し寄せてくる。

その時、一人の男がのっそりと部屋に入ってきた。ガスパロの後釜として、ドナートが無理やり傭兵組合長の座に据えた遠縁の男だ。

「……ドナート様。朝のご挨拶に……」

「貴様か! ちょうど良い! 王国に散らばった傭兵どもはどうなっておる! 早くまとめ上げんか、この無能者が!」

だが、男の態度はもはや以前の卑屈なものではなかった。彼は冷え冷えとした視線でドナートを見下ろし、ふん、と嘲るように鼻を鳴らした。

「ドナート様。もはやガスパロは我らの手の者ではございませんよ」

「……何だと?」

「消息を絶ちました。まあ、あれだけの大失態です。今さらどの面を下げて戻れましょう。それに、他の傭兵たちもヴェネーリアには戻りますまい。彼らも馬鹿ではない。負け犬として帰還すれば、どのような扱いを受けるか、骨身に染みて分かっておりますからな」

「き、貴様……! このわしを誰と心得るか! 貴様を組合長にしてやったのは、このわしだぞ!」

ドナートの顔が怒りで紫に染まる。だが、男は平然と肩をすくめた。

「ええ。ですが、その組合も今や中身は空っぽ。残っているのは老いぼれと新兵ばかり。立て直すのに何十年かかることやら」

「誰が養ってきたと思っている! この恩知らずの裏切り者どもめがッ!」

「裏切ったのは、どちらでしょうかな」

男の声が、氷のように冷たくなった。

「あちこちで活躍していた彼らを集めて、丸ごと使い捨ての駒のように死地に追いやったのは、貴方ではありませんか」

その言葉が引き金となり、ドナートの脳裏に忌まわしい光景が蘇る。伝令が顔面蒼白で報告した、反乱の顛末。

全てを盤上で操っていたのは、『天翼の軍師』であろう。その采配の前では、数の利も地の利も何の意味もなさなかった。

「……私は私で、そろそろ身の振り方を考えねばなりませんのでね」男は現実へとドナートを引き戻す。「マルコ様の新しい事業は、ずいぶんと羽振りが良いようですからな」

そう言い残すと、男はもはや何の敬意も払わず、きびすを返して部屋を出て行った。重い扉が閉まる音が、完璧な決別を告げていた。

一人残されたドナートは、がっくりと豪華な天蓋付きの椅子に崩れ落ちた。

駒も、金も、長年ヴェネーリアの闇を牛耳ってきた権威も、全てを失った。

(……どこで間違えた? どこで歯車が狂ったのだ……?)

震える手で顔を覆う。

(……あの帝国の『天翼の軍師』…...小娘だったという話も伝わってきたが……。銀髪の、仮面の、魔女……。が、現れてからだ……!)

呪詛が、乾いた唇から漏れ始めた。

「……あの化け狐め……それに乗せられた聖女マリア……あの若造のマルコめも……! 全て、あやつのせいだ……! 許さん……絶対に許さんぞ……!」

醜い恨み言は部屋の外まで漏れ、廊下ですれ違う侍女や執事が意味ありげに目配せを交わす。

(……ドナート様は、もう終わりだ)

(今のうちに次のご主人を探さねば)

(マルコ様の商会が、帝都の新市街のために大規模に人手を募集しているらしいわ)

(あちらの方が、よほど未来がある……)

沈みゆく泥船から、鼠たちが我先に逃げ出していく。ドナートが築き上げた巨大な砂の城から、一人、また一人と、静かに人が消えていった。

その日の夕暮れ。

がらんとした屋敷のテラスで、ドナートは一人、黄昏の海を眺めていた。燃えるような夕陽が、港と街並みを黄金色に染めている。港はいつもと変わらず活気に満ち、新しい船が希望を乗せて入港し、富を積んで出港していく。

だが、その活気は、もはや自分のものではなかった。

新しい時代の、抗いがたい巨大な波が、すぐそこまで押し寄せている。それをただ、茫然と見つめることしかできない。

夕陽に照らされた老いた背中はひどく小さく、落ちた影は寂寥を物語っていた。

彼の時代は、終わったのだ。

音もなく、静かに。