作品タイトル不明
第122話:『蜘蛛の糸』
王国東部国境地帯。
「戦」と呼ぶのもおこがましい、血の流れることのなかった反乱。その残骸が、冷たい風に晒されていた。天幕が虚しく空を叩き、消し炭となった焚き火が敗北の匂いを燻らせている。
後処理の指揮を執っていたクラウスの腰で、『囁きの小箱』が短く、しかし鋭く震えた。
聖女マリアからだった。
クラウスは誰何の声もかけず、音もなく近くの天幕の影に滑り込むと、通信に応じた。
『――クラウス? 聞こえるかしら?』
先ほどまでの柔和な響きは消え失せ、通信の向こうから聞こえてきたのは、鋼のように冷たく、一切の感情を排した声。それは命令を下す者の声だった。
「はっ。こちらクラウス。ご命令を、聖女様」
『今すぐガスパロ・バルボを追跡なさい。彼はまだ国境を抜けてはいないはず。見つけ次第、決して手荒な真似はせず、ただ一言だけ告げること』
「……と、おっしゃいますと?」
『――『聖女マリアが、貴殿にヴェネーリアよりも良い話を持ってきた』、と』
あまりに大胆不敵な伝言。その一言に込められた意図を、クラウスは瞬時に読み解いた。常人ならば言葉を失うその計略の壮大さに、彼の口元が微かに歪む。
「……承知しました」
◇◆◇
それから半日後。
国境へと続く寂れた街道を、数騎の馬が泥濘に足を取られながら進んでいた。馬の吐く息は白く、背に乗る者たちの魂が抜け落ちたかのように重い。
その中心に、ヴェネーリア傭兵組合長、ガスパロ・バルボはいた。
兜の下から覗く顔は土気色に沈み、かつて幾多の戦場を睨みつけた瞳は、今はただ馬のたてがみを虚ろに見つめている。
全てを失った。
金も、兵も、そして傭兵組合長としての誇りも名誉も、あの乾いた大地に置いてきた。ヴェネーリアに戻ったところで、待っているのは長老ドナートの侮蔑に満ちた詰問と、過去の栄光を酒の肴にする惨めな余生だけだ。絶望が、冷たい鎧となって彼の心を締め付けていた。
その、死に行く男たちの歩みを、道の真ん中に立つ人影が阻んだ。
みすぼらしい行商人のような身なり。だが、その両足は大地に根を張ったように微動だにせず、向けられる視線は獲物を定める狩人のそれだった。
「……何の用だ。見ての通り、虫の居所が悪い」
ガスパロが、錆びついた声で凄む。剣の柄に置かれた手が、微かに震えた。
だが、男――クラウスは動じない。まるで嵐の中の巨岩のように、ただ静かに佇んでいた。
彼はゆっくりと口を開き、マリアからの言葉を、凍てついた街道の空気に放った。
「――ガスパロ・バルボ殿。『聖女マリアが、貴殿にヴェネーリアよりも良い話を持ってきた』、と」
その言葉は、呪いのようにガスパロの動きを縛った。
聖女マリア。敵の象徴。
ヴェネーリアよりも、良い話。あり得ないはずの、甘い響き。
死んだ魚のようだった彼の瞳の奥で、何かが小さく爆ぜた。それは、灰の中に燻っていた残り火。好奇心という名の、そして打算という名の、狼のような光だった。
「……良いだろう。聞かせてもらおうか、その話を」
◇◆◇
近くの森。葉擦れの音だけが、二人の間の沈黙を埋めていた。
クラウスは、マリアからの破格の提案を提示した。
新生アルカディア王国の、新たな『傭兵ギルド』。その初代ギルドマスターの座。そして、先の戦で散り散りになった全ての傭兵たちの再編と統率の全権。
「……馬鹿な」
ガスパロは、吐き捨てるように言った。信じられるはずがない。
「俺は敗軍の将だぞ。お前たちに牙を剥いた、敵だ」
「ええ。ですが聖女様は、こうおっしゃっておられました」
クラウスは、まるで見てきたかのように、マリアの神託として語る。
「『敗軍の将だからこそ、兵の痛みも敗北の味も知っている。敵であったからこそ、誰よりもこの国の脅威を理解しているはずだ』、と」
「……!」
その言葉は、ガスパロの傷だらけの自尊心を的確に射抜いた。
「名を捨て、過去を捨て、この国で、もう一度その手腕を振るう気はありませんか」
甘い囁き。
それは、地獄の底で腐りかけていた男の頭上に垂らされた、一本の蜘蛛の糸だった。その糸がたとえ途中で切れる罠であろうと、今の彼には天からの救いに見えた。
彼は、その糸を掴むことを選んだ。
「……分かった。その話、詳しく聞かせろ」
こうして、聖女の名の下、天翼の軍師が描いた計略が静かに動き出す。
王国に牙を剥いた傭兵たちは、今や王国を守る新たな牙として生まれ変わる。その牙を束ねるのは、昨日までの敵将。
大陸の歴史が、また一つ、静かに舵を切った瞬間だった。