作品タイトル不明
第102話:『英雄の旅立ちと、軍師の凱旋』
新生王国の軍議から、一週間。
王都は夜明けと共に動き出し、日が落ちてもなお熱気に満ちていた。石畳を伝令の足音が絶え間なく響き、庁舎の窓には夜通し灯りが揺れている。新王アルフォンスと宰相グランは目の下に濃い隈を作りながらも、新たな国の法整備や役人の再配置に追われていた。聖女マリアもまた、自らの派閥の貴族たちを巧みに動かし、驚くべき速さで民衆への食糧支援路を確立している。誰もが新しい国創りの熱に浮かされ、必死だった。
そんな喧騒の中で、ただ一人、旅支度の革袋に着替えを叩きつけ、盛大なため息をつく男がいた。
「……なんで俺だけ、こんな辺境に行かなきゃならねぇんだよ」
ぶつぶつと不満を漏らすのは、『黒曜の疾風』ことハヤト。彼には「ロベール伯爵領の監視」という、重要だがひどく地味な任務が与えられていた。
「まあまあ、そう言わないの」
背後から、呆れたような声がかかる。マリアが軽やかに彼の肩を叩いた。
「考えてもみなさいな。国の創世記に、ただ一人で反逆者の刃から国境を守り続けた『孤高の英雄』……。後世の吟遊詩人たちがこぞって歌にする、最高の役どころじゃない」
「……そ、そうか……? 孤高の英雄……。悪くない響きだな……!」
単純なハヤトは、その一言で瞳に輝きを取り戻す。
「よし! 行くぜ! 俺がこの国の伝説になる!」
「ええ、その意気よ」
マリアはにっこりと満面の笑みを浮かべる。そして、その笑顔のまま、彼の耳元に唇を寄せた。
「……でも忘れないでちょうだいね。あなたの活躍は、こちらの『小箱』を通じて逐一、私に報告が入るようになっているから。……もし、おかしなことをしている気配でもあったら……まあ、ないと信じているけれど」
囁きは、氷のように冷たかった。
ハヤトの首筋にぞわりと鳥肌が立つ。彼は声もなく、何度も何度もこくこくと頷くしかなかった。
◇◆◇
その頃、賢者の庵。
セラとヴォルフラムによる、重たいほどの愛情――という名の過保護な介護のおかげで、私の体調はすっかり元に戻っていた。
「リナ様! もっと滋養のあるスープを!」
「リナ。肌寒いだろう。こちらの毛布を」
「リナ様! 本をお読みします! どの難解な書物がよろしいですか!」
「……も、もう大丈夫ですってば……!」
そんな賑やかな療養生活も、今日で終わりだ。
ライナーからの報告書によれば、クラウスを中心に王国では既に対ヴェネーリアの情報戦が始まっている。『影の部隊』も、三分の一が私の直属として帝国に戻ることを選んでくれた。その筆頭は、あの無口なゲッコーだ。
もう、私がここに留まる理由はない。
窓の外に広がる穏やかな森を見つめ、私は静かに決意を口にした。
「――じゃあ、帝国に帰りましょうか」
その一言で、私たちの長い潜入任務は、終わりを告げた。
◇◆◇
そして出発の日。
庵の扉を開けた私は、目の前の光景に息を呑んだ。
新王アルフォンス、宰相グラン、衛士長ライナー。そして彼らに付き従う騎士たちが、磨き上げられた鎧を朝日できらめかせながら、ずらりと整列しているではないか。彼らは私たちのために、新王直属の精鋭護衛隊『王家のグリフォン』を急遽編成し、帝国との国境まで護衛すると言う。
「……こ、こんな大げさにしなくても……」
私の困惑をよそに、アルフォンスが前に進み出て、一つの美しいペンダントを差し出した。王家の紋章が刻まれた、白銀の輝き。
「『天翼の軍師』殿。これは私の『親友の証』だ。君がいつかこの国を訪れた時、いかなる者も君を拒むことはない。この国は、いつでも君を歓迎する」
彼のあまりに真っ直ぐな瞳と言葉に、耳まで熱くなるのを感じた。
「さあ、出発しよう!」
アルフォンスの号令が響き渡る。
私たちが悠々と庵を発つと、沿道にはグランが手配したのだろう、多くの民衆が詰めかけていた。舞い散る花びら、熱狂的な歓声が私たちを包む。
「ありがとう、軍師様!」「帝国、万歳!」
その視線の渦に、私はどうしていいか分からず、ただ馬車の中で小さくなるしかなかった。
(……だから、大げさだってばぁぁぁ!)
私の心中を察してか、馬を並走させていたマリアだけが、くすくすと笑いながら私にだけ分かるようにウィンクを送ってくる。
私たちは多くの人々の熱い視線に見送られ、帝国への凱旋の途についた。
遠ざかる王都の城壁を振り返る。
王国の新しい時代は、今、確かに始まったのだ。
そして私の物語もまた、新たな舞台へと歩みを進める。