作品タイトル不明
92.
王都の外れに広がる、鬱蒼とした深い森の奥底。
陽の光すら届かない洞窟の中に、野盗たちの隠れ家であるアジトが存在していた。
洞窟の内部には、安酒の饐えた臭いと、カビ臭い土の匂いが充満している。
薄暗い松明の炎が揺らぐ中、下劣な笑い声を上げる男たちに囲まれ、一人の女性が壁際に追い詰められていた。
孤児院の院長であり、保母のエステラである。
彼女の服は土に汚れ、恐怖で肩をガタガタと震わせていたが、その両腕は自身の身を守るように固く抱きしめられていた。
「ぐへへへ。いい度胸してるじゃねえか。ガキどもを逃がすために、自ら囮になるとはな」
「だが、もう逃げ場はねえぞ。俺たちの慰み者になってもらうからな」
野盗の頭目が、黄色い歯を剥き出しにしてにじり寄ってくる。
エステラは絶望に目を閉じ、冷たい岩壁に背中を押し付けた。
子供たちは無事だろうか。誰か、あの子たちを助けて。
自身の貞操や命よりも、残してきた幼子たちの安否を思い、エステラは震える唇で祈りを捧げる。
「神様……。どうか、あの子たちに救いの手を……っ」
彼女が天に縋った、まさにその瞬間であった。
ズドォォォォォンッ。
洞窟全体を揺るがす、凄まじい爆発音が轟いた。
入り口を塞いでいた分厚い岩の扉が木っ端微塵に粉砕され、大量の土煙と瓦礫がアジトの中に吹き荒れる。
「な、なんだっ。何事だっ」
突風に煽られ、野盗たちが悲鳴を上げて床に転がる。
もうもうと立ち込める土煙の中から、コツ、コツ、とヒールの足音が静かに響いてきた。
薄暗い洞窟に、そこだけ月光が差し込んだかのような錯覚。
銀色の髪を美しく束ね、氷のように澄んだ瞳を持った女性が、悠然と姿を現したのだ。
冷徹妃、ミシェルである。
一切の感情を排した無表情のまま、彼女は野盗たちをゴミでも見るような冷たい視線で見下ろした。
「ああ……。女神様……」
そのあまりにも現実離れした美しさと、凛とした佇まいに、エステラは呼吸を忘れた。
土煙を背負って立つミシェルの姿は、絶望の淵に現れた女神そのものに見えたのだ。
「な、なんだ貴様はっ。どこから入り込みやがったっ」
混乱からいち早く立ち直った野盗の頭目が、血走った目でミシェルを睨みつける。
そして、腰から錆びた蛮刀を引き抜くと、真っ直ぐにミシェルへと躍りかかった。
「死ねぇっ、女ぁっ」
野盗の刃が、ミシェルの華奢な首筋へと迫る。
エステラが危ないと悲鳴を上げた、その時であった。
「俺の女に、薄汚い刃を向けるな」
地鳴りのような低い声と共に、巨大な影がミシェルの前に立ち塞がった。
鋼鉄の肉体を誇る覇王、ギデオンである。
ギデオンは振り下ろされた蛮刀を、素手で無造作に掴み取った。
ギリィッと嫌な音が鳴り、分厚い鋼の刃があっさりと砕け散る。
「な、だと……っ」
頭目が驚愕に目を剥いた瞬間、ギデオンの巨大な拳がその腹部に深々とめり込んだ。
ドゴォォォォンッ。
凄まじい衝撃音と共に、頭目の体がくの字に折れ曲がり、砲弾のような速度で吹き飛んでいく。
洞窟の奥の岩壁に激突し、カハッと血を吐いて、そのまま白目を剥いて壁にめり込んだ。
「ひぃぃぃっ、ば、化け物だぁっ」
一瞬にして頭目をスクラップにされた残りの野盗たちが、腰を抜かして這いずり回る。
ギデオンは拳についた埃を払い、不敵な笑みを浮かべて白い歯を見せた。
「なんだ貴様だと。愚問だな。その後ろの女に聞いたか」
ギデオンは太い親指で、背後に立つミシェルを誇らしげに指し示す。
そして、分厚い胸板を張って堂々と宣言した。
「俺のミシェルは、女神だ」
覇王の放った熱烈なのろけ言葉が、洞窟の中に反響する。
それを聞いたエステラは、やはり自分の直感は間違っていなかったのだと、目をキラキラと輝かせて両手を組み合わせた。
「やはり……。貴女様は、天が遣わした女神様だったのですね……」
エステラが感極まった声で呟き、うっとりとミシェルを見つめる。
凄惨な暴力の現場であるにも関わらず、そこだけ宗教画のような神聖な空気が流れていた。
しかし。
「違います」
ミシェルは中指で静かに眼鏡のブリッジを押し上げ、絶対零度の声で即座に否定した。
「わたしは帝国の文官であり、カイウスの教育担当です。神や女神といった非科学的な概念で呼ぶのはやめてください。データの入力エラーになります」
「えっ」
「それに、ギデオン。貴方はまた、無駄に力を込めて壁を破壊しましたね。あれでは洞窟が崩落するリスクが跳ね上がります。力加減という概念を、いつになったら学習するのですか」
ミシェルはため息をつきながら、見当違いな発言をしたエステラと、ドヤ顔をしていたギデオンの両方を、冷たい視線でまとめて切り捨てた。
「ぐぬっ。俺はかっこよく敵を倒したというのにっ。なぜ怒られるのだっ」
ギデオンがガックリと項垂れ、大きな体を丸めて膝から崩れ落ちる。
先ほどまでの覇王の威厳はどこへやら、完全に叱られた大型犬の姿であった。
「あ、あの……」
エステラは戸惑いながらも、女神のような美貌と、事務官としての冷徹さを併せ持つミシェルを、不思議そうに見つめる。
「怪我はありませんね、エステラ。孤児院の子供たちはすでに我が帝国の医療班が保護しました。全員無事です。貴方には、これから少しばかり『面接』を受けてもらいますよ」
「面接……ですか」
ミシェルは気絶している野盗たちを一瞥すらすることなく、エステラに向かって涼しい顔で手を差し伸べた。
理不尽な暴力から救い出してくれた、冷たくも頼もしいその手に。
エステラは戸惑いながらも、希望に満ちた表情でそっと自分の手を重ねるのであった。