軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第7話 九歳の問い

「カタリーナ、頼む。戻ってきてくれ」

──私がかつて十年間待ち続けた言葉を、あの人は、全てを失いかけてからようやく口にした。

朝食の席で、父が言った。

「辺境伯が面会を求めている。昨夜のうちに使者が来た」

紅茶を持つ手が、ほんの一瞬止まった。

「……そうですか」

「会う必要はない。断る」

父の声は硬かった。リンデン伯爵家の当主として、娘を裏切った婿に会わせたくないのだろう。当然の判断だ。

けれど。

「お父様。私が会います」

「カタリーナ」

「最後に伝えることがあります。それだけ済ませたら、二度と会うことはありませんから」

父は渋い顔をしたが、私の目を見て、それ以上は何も言わなかった。この目を知っている。引き継ぎ資料を作ると決めた時と、同じ目をしているのだろう。

応接室の扉を開けた。

ルートヴィヒが立っていた。

窓際ではなく、部屋の真ん中に。落ち着かないように歩き回っていたのだろう。私が入った瞬間、足を止めた。

——痩せた、と思った。

頬の肉が落ち、目の下に隈がある。上着は仕立ての良いものだが、どこかしわが寄っている。王都の社交界で「文武両道の辺境伯」と呼ばれていた男の面影が、薄い。

「カタリーナ」

名前を呼ぶ声が、掠れていた。

「お久しぶりです、ルートヴィヒ様」

私は扉を閉め、応接室の椅子には座らず、立ったまま微笑んだ。座れば長くなる。長くする気はなかった。

「……戻ってきてくれ」

開口一番だった。挨拶もなく、前置きもなく。

「領地がもたない。堤防が崩れて農地が水に浸かった。穀物商との取引も途絶えている。識字教室は教師が辞めて閉鎖した。領民が——領民が離れていっている」

声が早い。言葉が次から次へとこぼれ落ちるように出てくる。計算された弁舌ではなかった。この人が王都の社交界で見せる流暢な話術とは、まるで別のものだ。

「君がいないと、領地が回らないんだ」

(……十年間、あなたがいなくても、回っていたのにね)

その言葉は呑み込んだ。

「ルートヴィヒ様。それは辺境伯のお仕事です」

「俺一人では無理だ。分かっているだろう。あの引き継ぎ資料を読んだが、実務は——」

「三百二十四頁、お読みになったのですね」

静かに言った。

ルートヴィヒが口をつぐんだ。読んだのだろう。読んで、理解できなかったのだろう。あの資料を渡す時、私は「これで大丈夫だろう」と思っていた。──甘かった。大丈夫なわけがなかった。十年間の実務を、紙の上だけで引き継げるはずがないのだ。

「お気持ちは分かりました。ですが、私はもう辺境伯夫人ではありません」

「離縁はまだ正式に——」

「手続きは進んでおります。お父様が代理人を通じて」

ルートヴィヒの顔に、焦りが走った。

「子供たちのことを考えてくれ。エーリヒとリーゼには父親が必要だ」

──子供たちのために。

その言葉が、喉に刺さった。

子供たちのために。十年間、私が自分に言い聞かせてきた言葉だ。夫がいなくても大丈夫と笑い、堤防を一人で直し、帳簿を一人でつけ、エーリヒの夜泣きを一人であやし——全部「子供たちのために」やってきた。

その言葉を、この人が使うのか。

口を開きかけた、その時だった。

応接室の扉が、静かに開いた。

エーリヒが立っていた。

扉の外で聞いていたのだろう。九つの少年は蒼白な顔をしていたが、目だけが真っ直ぐだった。

「エーリヒ。ここは——」

「父上」

エーリヒがルートヴィヒを見た。

まっすぐに。

「父上は、母上が堤防を直していた時、どこにいらしたのですか」

沈黙が落ちた。

ルートヴィヒの顔から、表情が消えた。

「母上は毎朝五時に起きて、泥の中に入って堤防を見ていました」

エーリヒの声は震えていなかった。淡々と、事実だけを述べている。

「春になると、長靴を履いて河川敷を歩いていました。僕はいつも窓から見ていました。まだ暗いうちに出ていって、朝ごはんの前に戻ってきて、泥だらけの長靴を玄関で脱いで——それから僕たちに『おはよう』と言いました」

ルートヴィヒは動かない。

「父上は、その時、王都で何をしていたのですか」

答えは、なかった。

答えられるはずがなかった。あの時間、ルートヴィヒは王都の別邸にいた。ロゼッタと、もう一人の子供と。そのことを私は知っている。エーリヒは知らない。けれどエーリヒは「父がいなかった」ことだけを、九年間ずっと見ていた。

私はエーリヒの肩に手を置いた。

小さな肩だった。力が入っている。震えてはいない。

「──今更、お話しすることなどございません」

ルートヴィヒに向けて言い、それから目を伏せた。

ルートヴィヒは何も言わなかった。一歩後ずさり、もう一歩。それから踵を返し、応接室を出ていった。足音が遠ざかっていく。玄関の扉が閉まる音。馬車の車輪が動き出す音。

全部が遠い。

「エーリヒ」

振り向いて、膝を折り、息子と同じ目の高さになった。

「立派だったわ」

エーリヒの唇がわずかに震えた。けれど泣かなかった。

「でも、無理しなくてよかったのよ」

「無理なんかしていません」

九つの声が、硬い。

「僕は、母上のことを全部見ていました」

──全部。

毎朝五時の長靴。泥だらけの手。蝋燭の下の帳簿。領民への笑顔。夜、一人で溜息をつく背中。

この子は全部見ていた。

「……知っていたわ」

声が、少しだけ震えた。

エーリヒを抱きしめた。小さな体が腕の中にある。九つの、けれどもう子供だけではない、まっすぐな体。

泣かなかった。この子が泣いていないのだから、私も泣かない。

夜。

子供たちが寝静まった後、私は机の引き出しから書簡の束を取り出した。

ニコラウス・ヴェーバーからの書簡。五年分。

一通目。堤防の設計についての質問に、丁寧に回答してくれた書簡。末尾に『ご不明な点がございましたら何度でもお問い合わせください。ニコラウス・ヴェーバー』。公式の定型文。

二通目。水門の開閉タイミングについて。末尾に『ご判断は正しいと考えます』。——私が「素人の判断ですが」と書いたことへの返答。

七通目。堤防の断面設計を送った時。『この設計を一人で考えたのですか』。驚きが文面ににじんでいた。

十五通目。増水期の応急処置について相談した時。『どうかお体を大切に。貴方が倒れたら、あの堤防を守れる人間がいなくなる』。

二十三通目。辺境伯領の視察から戻った後の書簡。『先日の現場視察、大変勉強になりました。あの堤防は立派なものです。——素人の仕事では、決してありません』。

三十一通目。私が「辺境の気候は厳しいですが、堤防は持ちこたえています」と書いた時。『それは堤防が強いのではなく、管理する人間が優秀だからです。どうか、ご自身の功績を過小に評価なさらぬよう』。

一通ずつ読み返した。技術の話が大半を占めている。図面の数値、水流の計算式、石材の強度。その間に——ほんの一行、二行——技術とは関係のない言葉が挟まっている。

「ご判断は正しい」。

「お体を大切に」。

「一人で考えたのですか」。

「素人ではない」。

「ご自身を過小に評価なさらぬよう」。

五年間。一貫して。

(この人は、ずっと——)

五年間ずっと、私を見ていたのかもしれない。

書簡を胸に抱え、目を閉じた。今日、エーリヒは言った。「僕は母上のことを全部見ていました」と。九年間、窓の外から。

ニコラウスは五年間、書簡の向こうから。

(……でも)

目を開けた。

書簡を引き出しに戻す。

(子持ちの出戻りが、年下の青年に甘えてはいけない)

ニコラウスはザールフェルト公国で将来を嘱望される技師だ。国宝級とさえ呼ばれていると聞く。そんな人が、離縁した子持ちの伯爵令嬢に関わる必要はない。仕事の相手として、それだけでいい。

それだけで、十分すぎるくらいだ。

引き出しを閉め、蝋燭を吹き消した。

──十分で、いいはずなのに。

暗闇の中で、書簡の紙の匂いがまだ指先に残っていた。

──同じ頃。辺境伯領への帰路。

馬車の中は暗かった。

あの目が、頭から離れない。

九つの息子の目。まっすぐで、容赦がなくて、一切の言い訳を許さない目。「母上が堤防を直していた時、どこにいたのか」。

答えは——ロゼッタの邸宅だ。

朝、テオと朝食を取り、ロゼッタの淹れた茶を飲み、王都の社交界の予定を確認していた。その同じ朝に、カタリーナは泥の中に膝まで浸かって堤防を見ていた。

(取り返しのつかないことを、した)

涙がこぼれた。馬車の中で一人、声も出さずに泣いた。三十二年間、一度も泣いたことがなかったのに。

別邸に着いた。ロゼッタが出迎えた。

「お帰りなさいませ、ルートヴィヒ様。……どうなさいましたの。お顔の色が悪い」

「……駄目だった。カタリーナは戻らない」

ロゼッタの目が一瞬細くなった。すぐに元の穏やかな顔に戻った。

「やはり。あの方は——初めから、貴方様を追い詰めるおつもりなのですわ」

「……追い詰める?」

「ええ。離縁して、お子を連れ去って、帳簿を持ち出して。全て計算ずくですわ。きっと別の殿方がいらっしゃるのよ。前から噂のある、隣国のあの技師——」

言葉が、するりと耳に入った。

違う、と思った。カタリーナはそんな人間ではない。

──けれど、あの目を思い出す。エーリヒの目ではなく、カタリーナの目だ。応接室で微笑みながら「今更、お話しすることなどございません」と言った、あの冷たい目。

俺を見捨てた、あの目。

「……密通だと?」

「まさか。でも、噂というものは——」

ロゼッタが、俺の手を取った。柔らかい手だった。カタリーナの、泥で荒れた手とは違う。

「貴方様がお辛いなら、私がお守りしますわ」

俺は、その手を振り払わなかった。