軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第3話 門から三歩

十年前、この門から娘を送り出した。

銀木犀が咲いていた。秋の朝だった。花弁が地面に積もっていて、歩くたびに甘い匂いが立った。白い花嫁衣装を着た十八の娘が、馬車に乗り込んで、振り返らなかった。

「体に気をつけなさい」

それしか言えなかった。

言いたいことは、もっとあった。「辛かったら帰ってきなさい」。「無理をしなくていい」。「お前は嫁に行くのではなく──政略結婚というのは、つまりそういうものだ」。

全部、呑み込んだ。

アルブレヒト・フォン・リンデンは、感情を声に出さない男だ。妻が亡くなった日にも泣かなかった。泣けなかったのではない。泣いている暇がなかった。幼い娘と、領地と、伯爵家の名を守るのに精一杯で、涙を流す余白が人生のどこにもなかった。

──娘に似ている。

いや、娘が私に似たのだ。感情を呑み込んで、仕事に置き換える。その癖が、十年後に三百二十四頁の引き継ぎ資料になるとは、あの朝には想像もしなかった。

十年間、手紙が来た。年に数通。

カタリーナの筆跡は整っていて、内容は簡潔だった。「領地は順調です」「子供たちは元気です」「ルートヴィヒ様は王都のお仕事でお忙しいようです」。

嘘が書いてあるとは思わなかった。嘘ではなかったのだろう。領地は順調だった──カタリーナが一人で回していたから。子供たちは元気だった──カタリーナが一人で育てていたから。

「ルートヴィヒ様は忙しい」。、忙しかっただろう。二つの家庭を持っていれば。

(気づかなかった自分を、今も許せない)

いや、気づかなかったのではない。気づきたくなかったのだ。政略結婚でもうまくやっている。娘は立派にやっている。そう信じていたかった。

父親の願望は、時に目を曇らせる。帳簿の数字なら一銭の狂いも見逃さない娘が、人生の帳尻だけは、十年間も合わないままでいた。

あの日。門の前に馬車が止まった。十年ぶりに。

降りてきたのは、あの朝の花嫁ではなかった。

二十八歳の女だった。顔が引き締まっている。手が荒れている。日に焼けている。泥の匂いがする。目に、覚悟がある。十八の時にはなかった、何千日分の重さが目の奥に沈んでいる。

子供が二人、一緒だった。九つの少年と、七つの娘。

少年が、まっすぐに私を見て言った。

「おじいさま。母上を、よろしくお願いいたします」

九つの子供が言う台詞ではない。

(、ああ。この子も、一人で立っていたのだ。母と同じように)

カタリーナが私の前に立った。何も言わなかった。

門から三歩だけ歩み出て、両腕を広げた。

十年前は「体に気をつけなさい」と言った。短すぎた。けれど今度は、言葉すら出なかった。出なくていい。腕を広げれば、それで十分だ。

娘が、顔を埋めた。少しの間だけ。

銀木犀の匂い。十年前と同じ。あの朝と同じ匂いの中で、十年分の重さを受け止めた。

帳簿の写しを見た。五年分の収支記録。一銭の狂いもない。

数字の正確さに、思わず見惚れた。帳簿を美しいと思ったのは、人生で初めてだった。美しい、というのは正確ではない。、正確なのだ。正確さが、美しいのだ。

「ここと、ここ。使途不明金です」

付箋の箇所を指す指先が、淡々としていた。帳簿をつける時の声。感情を数字の下に押し込めて、正確に。

(、私に似ている。いや、私よりずっと強い)

「出す」

持参金返還請求を出す。嫁入り支度金の返還もだ。離縁事由が夫側にある以上、リンデン家には請求の権利がある。

「十年間、よく耐えた」

カタリーナは何も答えなかった。答えなかったが、一瞬だけ、足が震えていた。

走り続けていた人間は、止まった時に初めて足の痛みに気づく。

ニコラウス・ヴェーバーという男が現れた。正直に言おう。

警戒した。

娘の人生に、また男が入ってくる。技師で、平民で、年下だ。

作業場で図面を広げる二人を、書斎の窓から見た。声は聞こえないが、二人のペンが同じ図面の上を走っている。時折、数値を指差して頷き合っている。

ニコラウスが図面を広げる時、必ずカタリーナの側から読める向きに置いていた。自分は逆向きの図面を読んでいる。

(……図面の向き、か)

小さなことだ。会議室が広くて、向かい合うから、仕方がない。そう説明もできる。

けれど私は五十四年生きてきた男だ。あの向きの置き方は「仕方がない」ではない。毎回、選んでいるのだ。逆向きの図面を読む不便を引き受けて、カタリーナが読みやすいように。

ダールベルク伯爵が婚姻を持ちかけた日。カタリーナが言った。

「あの方は一度も、私に『どうしたいか』を聞きませんでした」

、見抜いている。道具として見られていることを。十年間の経験が、この子の目を研いだ。

「あの男は有能だ。有能だが、お前を人間として見ていない。そういう男に、娘はやらん」

十年前にも同じことを言うべきだった。ルートヴィヒも、カタリーナを人間として見ていなかった。便利な妻として。領地を回す道具として。

あの時、門から三歩出て「やめなさい」と言えなかった。

、あの三歩を、今も後悔している。

結婚式の日。銀木犀の下。十年前と同じ場所。同じ匂い。

けれど今日の娘は白い花嫁衣装を着ていない。普段着に近い、質素な装い。隣に立つ男は辺境伯ではなく、日に焼けた手の技師だ。

ニコラウスの手が震えていた。カタリーナが「緊張していますか」と聞いた。「していません」と答えた。嘘だった。鎖骨のあたりまで赤い。

(、正直な男だ。嘘が下手で、耳に出る。ルートヴィヒとは正反対だ)

「幸せになりなさい」

短く言った。もっと言いたいことがあった。「お前は十分すぎるほど頑張った」「今度は自分のために笑え」「あの技師は、悪くない男だ。図面の向きで分かる」。

全部、呑み込んだ。

門から三歩。十年前にも三歩だった。今日も三歩。この距離が、私の愛情の形だ。近すぎず、遠すぎず。手を伸ばせば届くけれど掴みはしない。

カタリーナが「はい」と答えた。声は震えなかった。

十年前の朝にも「はい」と言ったはずだ。けれどあの時の「はい」と今日の「はい」は、重さが違う。

今日の「はい」には、選びました、がある。

強い子だ。私に似て。いや、もう私より、ずっと強い。