軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第10話 風が渡る場所で

テオの長靴は、まだ新しかった。

革の色が明るい。履き慣れていない。足首のあたりが少しだけ大きくて、歩くたびにかぽかぽと音がする。

「テオ、こっち!こっちー!」

リーゼが玄関の階段を駆け下りてきた。マルタの「走らないでくださいまし」が追いかけてくる。追いつかない。リーゼの足の方が速い。十歳の足は、いつだって大人より速い。

テオが馬車から降りた。その後ろから、エーリヒが降りた。

春の光がまぶしかった。リンデン伯爵邸の中庭に、水仙が咲いている。二ヶ月前の冬には何もなかった花壇に、黄色い花が揺れている。

「テオ、おひさしぶり!あのね、つくったの!」

リーゼが両手を差し出した。

花冠。

水仙と蜂蜜草を編んだ、小さな花冠。不格好だった。花の向きが揃っていない。茎が一本飛び出している。けれど蜂蜜草の甘い匂いがした。

「テオのぶんもつくったー!」

テオの手が、ゆっくりと伸びた。

花冠を受け取った。

両手で持って、見つめた。蜂蜜草の匂いを嗅いだのだと思う。鼻がほんの少し動いた。

テオが──笑った。

嬉しい時だけ笑う。本を読む時に笑う。蝶を見つけた時に笑う。あの笑い方だ。唇の端がほんの少しだけ上がって、目が細くなる。大げさではない。小さい。けれど本物の、嬉しさだけでできた笑顔。

「……ありがとう」

テオの声は小さかった。

リーゼは満足そうに頷いて、エーリヒの腕を引っ張った。

「エーリヒのぶんもあるよ!へやにおいてある!」

「……僕のは後でいい」

エーリヒは苦笑していた。けれどその目は、テオの花冠を見ていた。テオが笑ったのを、見ていた。

私は玄関に立ったまま、三人を見ていた。

テオ・グラーフェンベルク。

その名前が、学園の記録に刻まれている。認知書類に、テオ自身の手で書かれている。もう「メルツ」ではない。もう「名前のない子供」ではない。

花冠をかぶったテオが、新しい長靴をかぽかぽ鳴らして、リーゼの後を追って中庭に入っていく。

──よかった。

それ以外の言葉が、見つからなかった。

午後。作業場。

ニコラウスがテオを呼んだ。

「堤防を見に行かないか」

テオの目が、ぱっと開いた。

「……いいのですか」

「設計図がある。見るか」

テオが頷いた。小さく、けれど速く。

ニコラウスが図面を広げた。クレン河の下流域。堤防の断面図。石積みの配置。導流堤の角度。テオの目が図面の上を走った。指が、等高線をなぞった。

「この線は──」

「河床の勾配だ。ここから下流に向けて千分の三で下がる」

「千分の三」

テオが数字を繰り返した。目が輝いている。本を読む時の目だ。植物図鑑の頁をめくる時と同じ目。けれど、もっと──もっと明るい。

「テオ」

ニコラウスの声が、少しだけ柔らかくなった。

「お前の目は、数字を読む目だ」

テオが顔を上げた。

「堤防は数字でできている。勾配と石の大きさと水量の計算で、壊れない壁を作る。──お前に向いていると思う」

ニコラウスが図面の隅を指した。

「ここに、公国技師見習いの応募要項をまとめてある。卒業後の選択肢の一つとして、見ておけ」

テオが図面の隅に目を落とした。

私も見た。

応募要項の隣に──余白があった。

ニコラウスの字。小さな字。いつもの、図面の余白に書く癖。

『カタリーナの紅茶に蜂蜜半匙。テオの紅茶にも半匙。』

息が止まった。

いつから書いてあったのだろう。いつから、この人はテオの分の蜂蜜を数えていたのだろう。

図面の余白。この人が数字を書く場所。設計図を引く場所。勾配と水量と石の配置を計算する場所に──蜂蜜の分量が書いてある。

半匙。

私と同じ。テオにも、同じ半匙。

(……この人は)

ニコラウスはテオに図面の説明を続けていた。等高線の読み方。石積みの原理。声は低く、簡潔で、いつも通りだった。蜂蜜のことなど何も言わない。紅茶のことも言わない。

言わない。

図面の余白に書いただけだ。数字で書いただけだ。

それが、この人の──

「ニコラウス」

声をかけた。

ニコラウスが振り向いた。

何か言おうとした。「蜂蜜」と言おうとした。「ありがとう」と言おうとした。「あなたは最初からテオを家族にするつもりだったのですね」と言おうとした。

──言わなかった。

「紅茶を淹れますね」

「ええ」

「テオの分も」

「──ええ」

ニコラウスの声が、ほんの僅かだけ低くなった。いつもの「ええ」より、半音だけ低い。

それだけで、わかった。

テオの紅茶にも蜂蜜半匙。この人はそれを、ずっと前から設計していた。

夕方。

六人で堤防の上を歩いた。

カタリーナ。ニコラウス。エーリヒ。リーゼ。テオ。マルタ。

リーゼが両手でカタリーナとニコラウスの手を繋いでいた。左手がカタリーナ、右手がニコラウス。腕を大きく振って歩く。長靴が石の上でぱたぱた鳴る。

テオがエーリヒの隣を歩いていた。花冠がまだ頭に乗っている。少し傾いている。蜂蜜草が一本、耳のあたりに垂れている。

「テオ、はなかんむりずれてるよ」

「……いい。このままでいい」

テオの声は、朝より少しだけ大きくなっていた。

エーリヒが黙ってテオの花冠を直した。傾きを正して、蜂蜜草を耳の後ろに挟み直した。テオは何も言わなかった。エーリヒも何も言わなかった。

マルタが少し後ろを歩いていた。六人分の影が、堤防の上に長く伸びている。春の夕日が低い。影が河の方に向かって伸びている。

風が吹いた。

追い風だった。

背中から吹いて、前に押す風。堤防の石を撫でて、河面を渡って、向こう岸の畑に届く風。

あの秋の日、五人で堤防を歩いた。あの日も追い風だった。今日は六人だ。一人増えた。テオが──ここにいる。

新しい長靴をかぽかぽ鳴らして、花冠を頭に乗せて、エーリヒの隣を歩いている。

遠くの丘の稜線に──

人影が見えた。

見えた、気がした。

目を凝らした。夕日が丘の上を焼いていて、輪郭がぼやけている。人かもしれない。木かもしれない。風に揺れる何かかもしれない。

もう見えない。

見えなくていい。

「おかあさま、はやくー!」

リーゼの声が風に乗った。

「いま行くわ」

歩いた。

テオが堤防の上で立ち止まって、河を見ていた。夕日が水面を染めている。テオの目が光を映していた。名前のある子の目だ。自分の手で名前を書いた子の目だ。

「テオ、行こう」

エーリヒが言った。

「──うん」

テオが歩き出した。

六人の足音が、堤防の上に重なった。石を踏む音。長靴の音。マルタのスカートの裾が風に鳴る音。リーゼの笑い声。

風が渡っている。

追い風。

全員の名前を知っている。全員の名前を呼べる。全員の名前が、どこかに刻まれている。堤防の銘板に。学園の記録に。条約の書面に。図面の余白に。紅茶の蜂蜜の、半匙の中に。

テオの長靴が、かぽかぽと鳴った。

──追い風だった。