軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第8話 振り返らない

手紙は、蜂蜜の匂いがした。

封を切った瞬間、鼻腔に甘い匂いが入り込んできた。安宿の埃っぽい空気の中で、場違いなほど柔らかい匂い。

便箋を抜き取った。紙の端が少しだけ油で透けている。蜂蜜パンを食べながら書いたのだろう。十歳の子供は、そういうことを気にしない。

『父上

学校は楽しいです。

友達ができました。商家の子で、ハンスといいます。もう一人、西部出身の子がいて、三人でよく昼食を食べます。

エーリヒさんが助けてくれました。詳しくは書けませんが、エーリヒさんがいなければ、僕はずっと一人で蜂蜜パンを食べていたと思います。

父上はお元気ですか。

テオ』

短い手紙だった。

便箋一枚。子供の字は丸くて、行が少しだけ右に傾いている。インクの染みが一箇所。「エーリヒさん」の「さ」の字が滲んでいた。力を込めて書いたのだろう。

──エーリヒが助けた。

机の上に手紙を置いた。指先に蜂蜜の匂いが移っている。

エーリヒ。あの少年。

応接室で俺の顔をまっすぐに見据えて、「母上が堤防を直していた時、どこにいたのですか」と問いかけた子供。あの声は、十一歳の声ではなかった。もっと古い──十年分の不在を知っている声だった。

あの子が、テオを助けた。

カタリーナの息子が。

俺の息子を。

(……皮肉だな)

テオが蜂蜜パンを好むことは、この手紙で初めて知った。十年間同じ屋敷にいて、この子が何を好んで食べるのか、知らなかった。朝食は別邸で済ませていた。テオの食事を見たことが──あったはずだ。あったはずだが、思い出せない。

リーゼも蜂蜜が好きだと、クラウスの手紙で読んだことがある。

九歳の娘。会ったことはない。手紙の中で、名前だけ知っている。

蜂蜜が好き。

血の繋がりを、こんな形で知る。俺の子供たちは二人とも蜂蜜が好きで、二人とも──俺の不在の中で育った。

街道を歩いていた。

安宿から北西へ、半日。旧辺境伯領に向かう最後の峠道は、馬車なら三日かかる距離だが、徒歩で峠の手前まで来れば──見える。

丘の上に立った。

見えた。

なだらかな丘陵地帯。遠くにラウシュ河の水面が光っている。秋の日差しが低く、水面が橙色に染まっている。

畑が──増えていた。

二年前に来た時、休耕地だった場所に、作物が植わっている。堤防が決壊した時に流された区画だ。あの時は瓦礫と泥だったのが──今は畑になっている。

堤防が見えた。

新しい堤防。

灰色の石積みが、ラウシュ河の南東の屈曲部を覆っている。以前の応急処置の土嚢とは違う。設計された構造物だ。石のサイズが揃い、目地が均等で──遠目にも分かる。あの石積みを設計したのは素人ではない。

銘板が光っていた。

堤防の中央。石の間に嵌め込まれた小さな銅板。日差しを反射して、ここからでも光の点が見える。

何が書いてあるかは──知っている。

設計者カタリーナ・フォン・リンデン。技師ニコラウス・ヴェーバー。

俺の名前は、ない。

あの十年間──領民の前で「辺境伯閣下」と呼ばれていた。帳簿に俺の名前が載っていた。堤防の補修計画に俺の承認印が押されていた。

全部、カタリーナの仕事だった。

帳簿をつけたのも、堤防を直したのも、領民の名前を覚えていたのも。俺は承認印を押しただけだ。それすら、半分は読まずに押していた。

──最初から、なかった。

銘板に俺の名前がないのは、消されたからではない。刻まれるべき名前が、最初から存在しなかったのだ。十年間、あの場所にいて、何もしなかった人間の名前が銘板に載るはずがない。

ロゼッタの声が、耳の奥に残っている。

「貴方はいつも、何もしなかったのですね」

何もしなかった。

ロゼッタにも。カタリーナにも。テオにも。エーリヒにも。

三百二十四頁。あの引き継ぎ資料を渡された日、俺は笑った。笑って──頁をめくって──青ざめた。あの分量の中に、俺の名前が一箇所も出てこなかった理由が、今なら分かる。

書く必要がなかったからだ。俺は、あの資料のどの業務にも関わっていなかった。

風が吹いた。丘の上を秋の風が渡っていく。ラウシュ河の水面が揺れ、堤防の石積みが──動かない。

あの石は動かない。カタリーナが七年かけて積んだ石と、技師が設計し直した新しい石が、ラウシュ河の水圧に耐えている。苔がつき始めているのが、ここからでも──いや、見えるはずがない。この距離では。

見えないのに、分かる。

あの堤防は安定している。俺がいなくても。俺がいなかったから。

丘を降りた。

振り返らなかった。

街道を南東へ戻る。安宿に向かって。来た道をそのまま。

テオの手紙が、上着の内ポケットに入っている。蜂蜜の匂いがする。紙の端が油で透けた、短い手紙。

「学校は楽しいです」。

十歳の子供が、父親に送った、当たり前の一文。

──当たり前のことが、こんなに重い。

九年間、聞かなかった。聞こうとしなかった。「学校は楽しいか」と書いたのは二ヶ月前。初めて。四十を過ぎた男が、便箋を三枚書き直して、ようやく出した二行の手紙。

返事が来た。

「楽しいです」。

たった四文字。蜂蜜の匂いのする、丸い字の、四文字。

(──次の手紙を書こう)

何を書くか、まだ分からない。「元気か」「友達はいるか」。前回と同じ質問を書くかもしれない。同じ質問でもいい。書き続けることが、今の俺にできる唯一のことだ。

カタリーナは何も教えてくれなかった。教える義理がないのだから、当然だ。あの三百二十四頁の資料は、引き継ぎであって、教科書ではなかった。俺への善意ですらなかったかもしれない。ただ、領地を守るために必要だっただけだ。

テオへの手紙の書き方を、誰にも教わっていない。

俺が自分で──書いた。それだけのことだ。

それだけの、小さなことだ。

街道の木々が色づき始めている。蜂蜜草はもう枯れている。秋が深まれば、あの甘い匂いは消える。

来年の春、また咲くだろう。

その頃にはテオに何通の手紙を出しているだろうか。三通。五通。返事が来ない月もあるだろう。来なくても、書く。書き続ける。

──カタリーナは十年間、帳簿を書き続けた。

俺は手紙を書き続ける。

帳簿と手紙では、比べものにならない。帳簿には領民百十二世帯の暮らしがかかっていた。俺の手紙にかかっているのは──テオの返事だけだ。

それでいい。

それだけが、俺の仕事だ。

峠を越えた。旧辺境伯領の丘が背中の向こうに消えた。

振り返らなかった。

上着のポケットで、蜂蜜の匂いがする手紙が体温に温められている。紙の角が折れないように、内ポケットの一番奥に入れてある。丁寧にしまったつもりだったが──蜂蜜の匂いだけは、布を通して漏れてくる。

街道を歩く。足が重い。金がないから馬車は使えない。三日の距離を、歩いて戻る。

テオの手紙を読み返すには、十分な時間だ。