軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第4話 解決策という距離

「仕事とは関係のない話をしてもいいですか」──ニコラウスがこう言う時は、いつも何かが変わる。

朝食が終わり、リーゼがマルタに連れられて庭に出ていった。父は書斎に戻った。食卓に残ったのは、私とニコラウスの二人だけだった。

紅茶はもう冷めている。ニコラウスのカップには半分ほど残っていた。いつもなら飲み干してから席を立つ人だ。

「どうぞ」

ニコラウスが鞄を持ち上げた。朝食の席に鞄を持ってきていたこと自体が、普段と違った。

鞄から、二つのものを取り出した。

一つ目。封書。ザールフェルト公国河川局の公印。開封済み。

二つ目。綴じられた書類。十頁ほど。表紙に、ニコラウスの筆跡で『クレン河流域合同管理体制提案書(草案)』と書かれている。

二つを、テーブルの上に並べた。封書が左。提案書が右。

「公国河川局から、帰任要請が来ています」

声は平静だった。技師が数値を報告する時の、あの安定した低音。

「主任河川技師の帰国を求める正式な人事命令です。条約に基づく駐在の延長は認められているものの、本務への復帰を優先すべきとの判断が──」

「いつ届きましたか」

遮った。声が硬いことは、自覚していた。

ニコラウスの目が──一瞬だけ、揺れた。

「……五日前です」

五日前。

先週の作業場。ニコラウスが公国からの書簡を受け取り、数秒の沈黙の後で引き出しにしまった日。それから白紙の計算用紙を取り出して、何かを書き始めた日。

あの日から、五日。

「この提案書は──」

「帰任要請への対策です。合同管理体制を正式に提案すれば、駐在延長の根拠になる。条約第七条の枠組みの中で、主任技師の常駐を正当化できます」

ニコラウスの指が提案書の表紙に触れた。十頁。数字が詰まっている。流域データ、管理体制の図解、条約条文との対応表。──五日間で、これだけのものを書いた。

あの白紙の計算は、これだったのだ。

公国への書簡も。書斎で夜遅くまでペンを走らせていたのも。全部、この提案書のための準備だった。

「帰任要請の書簡と、対策案を──セットでお見せしたかった」

ニコラウスの声が、ほんの僅かだけ低くなった。

「問題と解決策を一緒にお伝えすれば、ご負担が少ないと考えました」

──ご負担が少ない。

安堵が来るはずだった。

隠さなかった。ルートヴィヒのように十年間黙っていたのではない。五日で全てを見せてくれた。解決策まで添えて。技術者として、できる限りの準備を整えてから。

安堵が来るはずだったのに──来たのは、苛立ちだった。

「数日前から、知っていたのですね」

声が低い。自分でも驚くほど低い。

ニコラウスが黙った。

「作業場で白紙の計算を始めた日。書斎で公国宛の手紙を書いていた夜。あの時はもう、知っていた」

「……はい」

「解決策を用意してから報告する。それは──優しさなのでしょう」

テーブルの上の二つの書類を見つめた。封書と提案書。問題と解決策。きれいに並んでいる。整然と。技師らしく。

「でも」

声が出た。出てしまった。

(止めなさい。この人は隠したのではない。解決策を探していただけだ。ルートヴィヒとは違う。全然違う──)

違う。

分かっている。分かっているのに。

「私は五日間、あなたが何を書いているのか分からなかった」

ニコラウスの顔を見た。

「椅子の位置が変わった日も、書斎の灯りが遅くまで点いていた夜も。何かがあったのだと思っていた。けれどあなたは何も言わなかった」

沈黙。

テーブルの上で、冷めた紅茶の水面が微かに揺れている。窓の外で、リーゼの笑い声が遠く聞こえる。

「……不安を、共有してほしかった」

言葉が、喉の奥から出た。

「解決策を見せてほしかったのではなく。問題が見つかった時点で、解決策がなくても──一緒に考えたかった」

ニコラウスの手が──テーブルの上で、強く握られていた。

「間違えた」

低い声だった。

「……解決できない状態で不安を伝えるのが、怖かった」

ニコラウスの目が、テーブルの上の提案書に落ちた。

「計算式のない問題を持ち込むのが」

──計算式のない問題。

この人にとって、「不安を共有する」とは、解の存在しない方程式を差し出すことと同じなのだ。答えのない問題を相手に見せることが、できない。技師として。設計者として。答えを出してから渡す──それしか方法を知らない。

三日前の衝突を思い出した。「感情的な理由で常駐を選ぶべきではない」。あの言葉も同じだ。感情は計算に入らない。計算に入らないものを、どう扱えばいいか分からない。

ルートヴィヒは「隠す」人間だった。十年間、全てを隠した。

ニコラウスは「解決してから見せる」人間だった。五日間、解決策を探してから見せた。

違う。全然違う。

──けれど「不安を一人で抱えた」という点では、同じだ。

その類似に気づいた瞬間、胸の底が揺れた。

(同じ、ではない。同じにしてはいけない。この人は隠したのではない。解決策を探していたのだ。動機が違う。方法が違う。全部──)

全部違う。

けれど、結果として私は五日間、一人で不安の輪郭も掴めないまま過ごした。ニコラウスがいつもと違うことには気づいていた。白紙の計算。公国への手紙。椅子の一センチ。全部見えていた。見えていて──何も言えなかった。

「次からは」

声を整えた。

「解決策がなくても、先に言ってください」

ニコラウスが顔を上げた。

「問題が見つかった時点で。計算が終わっていなくても。答えがなくても」

「……努力します」

その「努力します」が、この人にとっては堤防の設計よりも難しいことだと──分かっていた。

計算式のない問題を、計算式のないまま差し出す。技師にとって、それは設計図なしで石を積むようなものだろう。手順がない。根拠がない。ただ「不安だ」とだけ言う。

──この人には、それが怖い。

(でも、やってほしい)

怖くても。不器用でも。

「……分かりました」

ニコラウスが、テーブルの上の二つの書類を私の方に滑らせた。

「全て、お読みください。帰任要請の書簡も、提案書も」

「ええ」

受け取った。

封書は薄い。提案書は──重かった。五日分の仕事が詰まっている。

午後。私室の窓辺に椅子を引いて、一人で座っていた。

テーブルの上に、ニコラウスの提案書を広げている。十頁。数字の密度が高い。流域データ、管理体制の比較表、条約条文との対応、駐在延長の法的根拠。

──非の打ちどころがなかった。

技術的に。論理的に。数字の上では。

ニコラウスが五日間かけて書いた提案書は、完璧だった。私が三日前に見つけた定期巡回制の法的根拠も、既にこの中に組み込まれていた。条約第七条の解釈。合同管理の枠組み。全て、私と同じ結論に辿り着いている。

(この人は──三日前の衝突の時、もう答えを持っていたのだ)

「合理的に見て、常駐する必要はない」。あの言葉は、感情を排除した冷たい判断ではなかった。帰任要請を受けて、定期巡回制の可能性を計算した上での──技師としての結論だった。

けれど、その計算の出発点を、私には言わなかった。

帰任要請があること。自分が離れなければならない可能性があること。だからこそ、常駐ではなく定期巡回制の方が合理的だと──全部、繋がっている。繋がっているのに、最初の一ピースだけが欠けていた。

(先に言ってくれていたら──三日前の衝突は、なかったかもしれない)

ため息が漏れた。

提案書を閉じて、膝の上に置いた。窓の外で、夏の午後の日差しがクレン河を照らしている。水面が白く光っている。

(怒っているのだろうか、私は)

怒りとは違う。苛立ちとも違う。

──寂しかった。

五日間、この人が一人で計算していたことが。不安を抱えながら、解決策を探していたことが。私の隣にいながら、一人で。

ルートヴィヒは十年間、王都で別の家庭を持っていた。隣にいるふりをして、実際にはいなかった。

ニコラウスは五日間、隣にいながら、問題を一人で抱えていた。いるのに、いない。

(同じではない)

同じではない。動機が違う。方法が違う。ルートヴィヒは自分のために隠した。ニコラウスは私のために黙っていた。

──けれど、「一人にされた」という感覚は、同じだ。

その感覚に気づいて、自分に苛立った。

(この人とあの人を同じにするな。あの人は十年間嘘をついた。この人は五日間、解決策を探していただけだ。比べるものではない)

比べるものではない。

分かっている。分かっていて──比べてしまう自分が、嫌だった。十年間の傷が、まだこんなところに残っている。

提案書を、もう一度開いた。

数字を追った。一行ずつ。丁寧に。

数字は嘘をつかない。この提案書の数字は全て正確で、論理は一貫していて、結論は明快だ。──この人の誠実さは、数字の中にある。言葉が不器用な分だけ、数字が雄弁だ。

(受け入れよう)

この人の欠点を。

感情の計算方法を知らないこと。不安を一人で抱えること。解決策がないと口が開かないこと。

──全部、悪意ではない。不器用さの延長だ。

「次からは先に言ってください」と伝えた。ニコラウスは「努力します」と答えた。

努力する、と言った。堤防の設計よりも難しいことを。

それで──十分だ。

提案書を閉じた。

夜。

作業場に一人でいた。

机の上に、三つの書類を並べた。

左。王家からの管理権委託の打診書。常駐管理者の配置、という条件。

中央。公国河川局からの帰任要請書。主任技師の帰国を求める正式な人事命令。

右。ニコラウスの合同管理体制提案書。定期巡回制の法的根拠。駐在延長の正当化。

三つの書類を、横に並べて見比べた。

数字は──完璧に揃っていた。

管理権の常駐条件は、定期巡回制で代替できる。帰任要請は、合同管理体制の提案で退けられる。三つの問題が、一つの解決策で繋がっている。ニコラウスの提案書は、そのことを証明している。

(見事な設計だわ)

技師の仕事だ。問題を分析し、解決策を設計し、数字で裏付ける。五日間でこれだけのものを書ける人間は──そうはいない。

けれど。

三つの書類の数字を追いながら、胸の底に残っているものがあった。

「先に見せてほしかった」。

その感情が、どの数字にも載っていない。提案書の十頁のどこにも、帰任要請書のどこにも、管理権の打診書のどこにも。

数字では片付かないものが、ある。

蝋燭の火が揺れた。窓の外は暗い。夏の夜は短いが、書類と向き合っていると時間の感覚が薄れる。

ペンを取った。

手帳を開いて、書いた。

『私はどうしたいのか。』

一行。

管理権を受けるか。常駐するか。定期巡回にするか。ニコラウスの提案を受け入れるか。

全て──条件と数字で決められる問題だ。

けれど、条件と数字だけで決めたくなかった。

「子供たちのために」──十年間、その言葉で全てを決めてきた。堤防を直すのも、帳簿をつけるのも、離縁を決めたのも。

今度は──「自分の意志で」選びたい。

何を選ぶのかは、まだ分からない。

分からないけれど──問いだけは、ここに書いておく。

手帳を閉じた。蝋燭を吹き消した。

暗闇の中で、ニコラウスの声が耳の奥に残っていた。

「努力します」。

あの声は──堤防の設計を語る時の声ではなかった。もっと不安定で、もっと正直で。計算式のない声だった。

(この人は今日、初めて計算式のない言葉を口にした)

「間違えた」と。

「怖かった」と。

数字では片付かないものを、数字では片付かない言葉で。

──それが、この人なりの一歩なのだ。

不器用で、遅くて、怖がりで。でも、嘘はつかない。

明日の朝、フリッツの点検報告を確認する。それから、提案書の数字を検算する。一箇所の間違いもないはずだ。この人の数字は、いつだって正確だから。

ただ──数字の外側にあるものを、これからは二人で学んでいく。

一人では、もう抱え込まない。

この人にも──一人で抱え込ませない。

蝋燭のない暗闇の中で、椅子の一センチを思った。

あれは帰任要請を受けた日に動かしたのだと──今なら分かる。

離れたくないと、計算式のない方法で、言っていたのだ。