軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第10話 風が渡る

新しい堤防の上を、風が渡る。

春の風だった。冬を越えた草が芽吹き、水面が光り、石積みの目地に苔が厚くなっている。去年の春よりも、苔は濃い。根を張ったのだ。動かない石に、しっかりと。

──けれど今朝、最初に目に入ったのは、その堤防ではなかった。

庭の花壇の前に、石が積んであった。

三段。膝の高さほど。河原の石を選んで、目地を詰めて、排水の隙間を一箇所だけ残した小さな堤防。設計図はない。二人で積んだ。一つ目の石をニコラウスが置き、二つ目を私が置き、三つ目はリーゼが「ここ!」と指差した場所に据えた。

その石の上に、今朝、花が載っていた。

黄色い花。名前は──リーゼに聞かないと分からない。ニコラウスが教えた花の一つだろう。花弁が小さくて、茎がまっすぐで、朝露に濡れて光っている。

リーゼが石の堤防の前にしゃがみ込んで、花の位置を調整していた。

「もうちょっと右。──右ったら右!」

誰に言っているのかと思ったら、フリッツだった。若い家臣が、花壇の向こう側で膝をついて、リーゼの指示通りに花の鉢を動かしている。

「カタリーナ様、助けてください……」

フリッツの目が救いを求めていた。堤防点検は一人でこなせるようになったが、九歳の少女の園芸監督には耐えられないらしい。

「リーゼ。朝ごはんの前に、あと何鉢?」

「三つ!」

「一つにしなさい。パンが冷めるわ」

「二つ!」

「一つ」

「……一つと半分!」

半分とは何だ。

結局リーゼは二鉢を並べ終えてから、泥だらけの手のまま朝食の席に飛び込んできた。マルタが「手を洗いなさい!」と追いかけた。

朝食の席に、日が差していた。

紅茶の湯気が、窓から入る光に透けている。パンは今朝焼いたもので、まだ温かい。蜂蜜の瓶がリーゼの手の届く位置にある。──届きすぎている。マルタが瓶を少し遠ざけた。リーゼが不満そうな顔をした。

ニコラウスが向かいの席で紅茶を飲んでいた。いつもより半匙甘い紅茶を、何も言わずに。

父は庭に面した椅子で、朝の新聞を読んでいた。正確にはリンデン伯爵領の週報だが、父は「新聞」と呼ぶ。老眼が進んだのか、紙を腕の長さまで離している。

「マルタ。今朝の郵便は」

「はい、奥様。二通ございます。一通はクラウスより定例報告。もう一通は──」

マルタがわずかに微笑んだ。

「エーリヒ様からです」

封書を受け取った。学園の消印。日付は十日前。エーリヒの筆跡は、一年前よりずっと安定していた。もう幼さは残っていない。法律書を読み込んだ指が書く、正確な文字。

封を切った。

『母上

学園の一年目が終わります。法律の試験は上位でした。歴史は中位ですが、教官に「論述が正確すぎて面白みがない」と言われたので、来年は少し文章に色をつけてみます。ヴェーバー先生の付箋のせいで、僕の文章は条文に似ているらしいです。

テオのことをご報告します。

先日、学園の庭で少し話しました。あの子は一年間で友達が増えました。寮の商家の息子だけでなく、同じ授業の貴族子弟とも普通に話しています。姓のことを聞かれると「メルツだ」とだけ答えて、それ以上は何も言わないそうです。

あの子に会いました。

強い子です。

母上に似ていると思いました。

笑い方は父上に似ています。でも、笑っている理由が違います。父上は人前で笑うのが上手な人でした。テオは──嬉しい時に笑います。それだけです。嬉しくない時は笑いません。その正直さが、僕には少し眩しいです。

堤防のこと、式典のこと、ダールベルク伯爵のこと、全部マルタから聞きました。母上はきっと「大したことではない」と言うでしょう。大したことです。

それから、一つお願いがあります。

母上。来年の夏、ヴェーバー先生と一緒に薬草を採りに行く約束をしていたでしょう。

僕も連れて行ってください。

エーリヒ』

手紙を膝の上に置いた。

──来年の夏に、採りに行きましょうか。

あの日の声が、耳の奥で聞こえた。クレン河の合流点で、ニコラウスが声を嗄らしながら筆談で書いた言葉。冬の風邪で声が出なくて、紙の上に「来年の夏に薬草を」と書いて、私が「はい」と答えた。

あの約束を、エーリヒが覚えていた。マルタから聞いたのか、それとも──あの子は、何でも見ている。

「どうしました」

ニコラウスが、紅茶のカップ越しに私を見ていた。

「エーリヒが、薬草採りに行きたいと」

「……薬草」

「来年の夏に。三人で」

ニコラウスの手が──止まった。カップが唇の手前で浮いている。

「覚えて──いたのか」

「あの子は忘れませんよ。法律書に書いてあることも、書いてないことも」

ニコラウスがカップを置いた。耳が赤い。

「……三人は多い。薬草の採取は静かな方がいい」

「リーゼも行きたいと言いますよ」

「四人は──」

「マルタもついてきます」

「五人は──もう遠足です」

「遠足でいいではありませんか」

ニコラウスが──笑った。口元だけの、あの不器用な笑い方。

リーゼが「えんそくー!」と叫んだ。蜂蜜の瓶に手を伸ばした。マルタが「まず手紙を読み終えてからです!」と瓶を退避させた。父が週報の向こうから「騒がしいな」と言った。声は穏やかだった。

手紙を畳んで、封筒に戻した。

エーリヒの文字。テオのこと。薬草の約束。

──強い子です。母上に似ていると思いました。

(似ていない。あの子は私より、ずっと正直だわ)

朝食の後、堤防の点検に出た。

クレン河の河川敷。朝の空気がまだ冷たい。春とはいえ、水辺には冬の名残がある。長靴の革は──もう足に馴染んでいた。一年半前に買った長靴。硬かった革が、毎朝の点検で、足の形になっている。

石積みの護岸に手を触れた。苔が指先にざらりと触れる。目地に異常はない。排水口も正常。導流堤の接合部を確認して、手帳に記録する。

──この作業を、昨日はフリッツが一人でやった。報告は正確だった。手帳の字は癖があるが、情報は過不足ない。

引き継ぎが、できている。

一人で抱え込まない。

ニコラウスが隣を歩いていた。同じ歩幅で。半歩後ろではなく。

手を繋いでいた。日に焼けた手。節の太い指。蝋燭を替え、椅子を動かし、銘板を刻み、花壇の石を積む手。

「水位、先月比で二センチ低下。安定しています」

「ああ。今年は雪解けが穏やかだった」

仕事の話だった。手を繋いだまま、水位の話をしている。

──おかしくはない。これが、私たちの日常だ。

後ろから、足音が聞こえた。

「待ってー!」

リーゼの声だった。堤防の草の上を走ってくる。花壇から持ち出した黄色い花を一輪、手に握って。

「走ると転びますよ!」

マルタの声が追いかけてくる。

リーゼが走り抜けていった。ニコラウスの外套の裾を掴んで、「お花、堤防にも飾る!」と宣言した。

「堤防に花は──」

「飾る!」

ニコラウスが私を見た。助けを求める目。堤防の設計はできても、九歳の花の配置には勝てない。

「一輪だけね、リーゼ」

「二輪!」

「一輪」

「……一輪と半分!」

また半分だ。

リーゼが堤防の石の隙間に花を挿した。黄色い花弁が、朝日に揺れている。石積みの灰色の中で、一輪だけが色を持っている。

──不思議と、悪くなかった。

庭に目をやると、父が縁側の椅子で本を読んでいた。週報ではない。何かの小説らしい。日差しが父の白髪に落ちて、銀木犀の影が揺れている。

マルタが縁側で父にお茶を出していた。父が「ありがとう」と言って、マルタが頭を下げた。いつもの光景だった。

エーリヒはここにいない。学園にいる。けれど手紙がある。来年の夏の約束がある。薬草を採りに行く。五人で。遠足のように。

テオは──あの子も、学園にいる。メルツの姓で。嬉しい時だけ笑う、正直な子。

ルートヴィヒは──

(どこにいるのだろう)

ふと、そう思った。一瞬だけ。

分からなかった。分からなくて──構わなかった。

あの人がどこにいるかを、私はもう知る必要がない。堤防の上にも、条約の中にも、この家の朝食の席にも、あの人の名前はない。忘れたのではない。覚える必要が、なくなったのだ。

風が吹いた。

春の風だった。堤防の草を揺らし、水面に波紋を作り、リーゼが挿した花を揺らしていく。髪が乱れる。ニコラウスの外套の裾が、同じ風になびいている。

手を繋いだまま、堤防の上に立っていた。

後ろでリーゼが笑っている。マルタが何か言っている。父が本を閉じて空を見上げている。

──子供たちのために。

十年間、そう言い聞かせてきた。堤防を直すのも、帳簿をつけるのも、離縁を決めたのも。全部、子供たちのために。

今は──違う。

子供たちは自分の足で立っている。エーリヒは法律書を読み、テオに声をかけ、薬草採りに行きたいと手紙を書く。リーゼは花壇を仕切り、堤防に花を飾り、蜂蜜を際限なく要求する。

私がいなくても、あの子たちは大丈夫だ。

だから──今、ここで笑っているのは、子供たちのためではない。

風が気持ちよかった。

隣に人がいた。

後ろで子供たちが笑っていた。

それだけで──笑えた。

誰のためでもない笑顔だった。

堤防の上を、風が渡っていく。