軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第8話 耐えた夜

水の音が、変わった。

夕刻までは穏やかだった。ラウシュ河の水面は低く、護岸の石積みの上端まで余裕があった。春の増水期とはいえ、ここ数日は雨もなく、水位は安定していた。

日が暮れてから、音が変わった。

上流で降ったのだ。ここには降っていない。けれど水は正直だ。上流の雨は、半日から一日遅れで下流に届く。水位が上がり始めると、川の声が低くなる。水量が増えて、流れが太くなる。石を叩く音が重くなる。

堤防の上に立っていた。

新しい堤防。南東の屈曲部。崩壊した護岸を地盤処理からやり直し、導流壁を入れ、石材を積み直した。設計から完成まで四ヶ月。ニコラウスと二人で線を引き、クラウスが手配した作業員三名と領民たちが石を運んだ。

初めての増水期。

設計通りに機能するかどうかは──水が来なければ分からない。

「水位、護岸の下端から七十センチ」

ニコラウスの声が暗闇の中で響いた。提灯の光の中で、水位の目盛りを読んでいる。あの目盛りは新しい。ステンレスの定尺。かつてカタリーナが刃物で刻んだ木の目盛りの代わりに、正式な測量器具を据え付けた。

「一時間前より十五センチ上昇。上昇速度が加速しています」

「想定範囲内ですか」

「今のところは。──けれど、上流の降雨量が分からない。最悪の場合を想定して、護岸上端まであと百三十センチ」

百三十。

一時間に十五センチの上昇が続けば、九時間弱で護岸上端に達する。夜明けまで──あと六時間。

「際どいですね」

「際どい」

ニコラウスが提灯を下ろした。暗闇の中で、水面が黒く光っている。風が吹くたびに波紋が走り、堤防の石積みにぴたぴたと水が当たる。

腰を下ろした。堤防の上端。新しい石積みの上に座ると、石の冷たさが太腿に伝わった。春とはいえ、夜の水辺は冷える。

ニコラウスが隣に座った。

肩が──触れた。

外套越しの体温。この人の肩幅は広い。技師の体だ。現場で鋤を握り、測量器を担ぎ、石を運んできた体。

「……寒いですか」

「大丈夫です」

「外套を──」

「大丈夫です」

二度言った。外套を脱ぐ必要はない。肩が触れている。それで十分温かい。

クラウスが差し入れを持ってきた。パンと、温めた葡萄酒と、干し肉。「夜通しになりますから」と言って、堤防の脇に小さな箱を置いていった。

パンを千切って食べた。おかみのパンではない。管理事務所の厨房で焼いたものだ。塩気が強い。夜の見張りには、これくらいがいい。

ニコラウスが葡萄酒を一口飲んで、水位の目盛りを確認した。

「七十五センチ。上昇速度、やや鈍化」

「鈍化──上流の雨が弱まったのでしょうか」

「まだ分かりません。三十分後にもう一度」

パンを齧りながら、暗い水面を見つめた。

──七年前の春も、こうだった。

あの頃は一人だった。堤防の上に座って、提灯の光で水位を読んで、パンを齧って。マルタが差し入れを持ってきてくれることはあったが、堤防の上に座るのはいつも一人だった。ルートヴィヒは王都にいた。

隣に──誰もいなかった。

今は違う。

肩が触れている。同じパンを食べている。同じ水面を見ている。三十分ごとに水位を読み上げる声が、暗闇の中に落ちる。

「八十センチ。上昇速度、さらに鈍化」

「鈍化が続いていますね」

「ピークが近い可能性があります。もう一時間、様子を見ましょう」

一時間。

暗闘の中で、時間がゆっくりと流れた。水の音。風の音。遠くで蛙が鳴いている。提灯の油が燃える、かすかな匂い。

ニコラウスが黙っていた。私も黙っていた。

黙っているのに──孤独ではなかった。

夜明けが来た。

東の空が白み始めた時、ニコラウスが目盛りを読んだ。

「九十二センチ。──三十分前と同じです」

水位が止まった。

「ピークです」

ニコラウスの声が、初めて緩んだ。安堵だ。技師の安堵。数値で確認した安堵。

「護岸上端まで、まだ七十八センチの余裕がある。──耐えました」

耐えた。

新しい堤防が、初めての増水に耐えた。

導流壁が水流の角度を変え、護岸への衝撃を逃がしている。設計通りだ。石積みの目地にひびはない。排水口も正常に機能している。

立ち上がった。足が痺れていた。一晩座りっぱなしだったのだ。

堤防の上から、ラウシュ河を見下ろした。増水した水面が朝日を受けて、鈍い金色に光っている。水は高い。けれど堤防の内側に溢れてはいない。石積みが──持ちこたえている。

風が吹いた。

春の風だった。冬の名残はもうない。暖かい風が、堤防の草を揺らし、水面に波紋を作り、髪を乱していく。

「一人で築いた堤防は壊れた」

声に出した。風に向かって。

「皆で築いた堤防は──壊れなかった」

ニコラウスが隣に立っていた。何も言わなかった。ただ──同じ風の中に立っていた。

午後。

水位が安全圏まで下がったことを確認して、クラウスに報告した。作業員たちが堤防の点検を始めている。護岸の目地。排水口。導流壁の接合部。全て、教えた手順通りに。

私は──作業場に戻ろうとした。報告書を書かなければならない。増水期の初回データ。水位の推移。堤防の応答。全て記録に残す。

「カタリーナ殿」

ニコラウスが呼び止めた。殿がついている。仕事の話だ。

「一つ、お見せしたいものがあります」

堤防に戻った。

南東屈曲部の導流壁。水流を受ける面の、ちょうど真ん中あたり。ニコラウスが石積みの一つを指した。

石の表面に──文字が刻まれていた。

小さな銘板。銅製。石積みに嵌め込まれている。朝日を受けて、青緑色に光っている。

文字を読んだ。

『クレン河流域治水協力条約に基づく旧辺境伯領堤防復興事業 設計者 カタリーナ・フォン・リンデン ニコラウス・ヴェーバー』

私の名前が、あった。

条約文書に。委託書に。そして今──堤防そのものに。

「……いつ」

「昨日の夕方、水位が上がる前に。──間に合ってよかった」

増水の前に嵌め込んでいたのだ。堤防が耐えるかどうかも分からないうちに。耐えなければ、この銘板は水の底に沈んでいた。

「耐えると、分かっていたのですか」

「設計が正しければ耐える。計算は確認済みです」

「では、なぜ増水前に」

ニコラウスが──少しだけ、口元を緩めた。

「技師としてではなく」

息が止まった。

技師としてではなく。

あの言葉だ。水源の石を渡してくれた日と同じ。誕生日に、「技師としてではありません」と言って、河原の石を布に包んで差し出した──あの日と。

「銘板は公式の記録です。設計者の名前を残すのは当然のことです。──けれど、増水前に嵌めたのは」

言葉が、途切れた。この人は感情を言葉にするのが下手だ。どうしようもなく。

「……堤防が耐える前に、名前を刻みたかった」

掠れた声だった。

「耐えてからでは──ただの記録です。耐える前に刻むのは」

「……信頼、ですか」

「はい」

銘板に触れた。銅の表面が冷たい。増水の水に晒されて、まだ湿っている。指先で自分の名前の凹凸をなぞった。

条約文書の活字とは違う。手で刻んだ文字だ。ニコラウスが──あの節の太い、日焼けした手で。

堤防の石に。水の前に。名前を。

「……ありがとう」

声が震えた。震えてもよかった。堤防の上で、朝の風の中で、増水を越えた朝に。

ニコラウスは何も言わなかった。隣に立っていた。肩は触れていなかった。けれど──風が、二人の外套の裾を同じ方向に揺らしていた。

管理事務所に戻ると、エーリヒからの手紙が届いていた。

学園の消印。日付は一週間前。転送に時間がかかったのだろう。

『母上

学園は相変わらず法律の授業が一番面白いです。歴史も悪くありません。

テオのことをご報告します。

あの子が友達を作り始めました。同じ寮の、平民枠で入った商家の息子と仲が良いようです。昼食を一緒に食べているのを何度か見ました。

先日、授業の後にテオと少し話しました。あの子は笑うと父上に似ています。顎の線と、目の細め方が。

けれど、笑う回数は父上より多い。

ずっと多い。

あの子は悲しみを抱えたまま笑える子です。それが強さなのか、それとも別の何かなのか、僕にはまだ分かりません。けれどあの子が笑っている時間が増えていることは、良いことだと思います。

堤防は大丈夫でしたか。増水期のことが気になっています。

ヴェーバー先生によろしくお伝えください。

エーリヒ』

手紙を膝の上に置いた。

──笑う回数は、父上より多い。

ルートヴィヒは笑う人だった。社交界で「文武両道の辺境伯」と呼ばれていた頃、あの人はよく笑った。余裕のある、計算された笑い方。私が何を言っても「大丈夫だ」と笑い、十年間の嘘を笑顔の下に隠していた。

テオの笑い方は──きっと違うのだろう。

父親に似た顔で、父親とは違う笑い方をする子供。悲しみを知っていて、それでも笑う子供。

エーリヒが「強い」と書きかけて、「別の何かなのか分からない」と留保した。十一歳の慎重さだ。断定しない。この子は断定を避ける子だ。法律書を読む子だから。

手紙を封筒に戻して、引き出しにしまった。

窓の外で、春の光がラウシュ河を照らしていた。増水はピークを過ぎた。水位は少しずつ下がっている。新しい堤防の石積みが、朝日に白く輝いている。

銘板が──その中に嵌まっている。

私の名前と、ニコラウスの名前。

ルートヴィヒの名前は──どこにもなかった。条約にも。委託書にも。銘板にも。領民の記憶にも。

消したのではない。

最初から──なかったのだ。あの人の名前は、この堤防の上に、一度も刻まれたことがなかった。