作品タイトル不明
第6話 声をかけられなかった人
蝋燭が一本だけ灯った作業場で、ニコラウスが図面から目を上げた。
夜だった。管理事務所の窓の外は暗く、ラウシュ河の水音だけが遠くから聞こえている。秋の虫が鳴いている。旧辺境伯領の夜は静かだ。静かすぎるくらいに。
設計作業は終盤に差しかかっていた。南東屈曲部の地盤処理。崩壊した護岸の再構築。二次浸食を止めるための仮設導流壁。図面の上に線が重なり、数値が並び、工程表が組み上がっていく。
増水期まで、あと二ヶ月。
「この区間の石材、明日クラウスに発注を頼みます。南部の石材商なら納期が──」
「カタリーナ」
敬称がなかった。
呼ばれて、手が止まった。ニコラウスが仕事中に敬称を外すのは、ごく稀だ。堤防の上で求婚した日と、婚姻の式の日と──数えるほどしかない。
ペンを置いた。
ニコラウスは図面の上に両手を置いたまま、視線を落としていた。蝋燭の光が、この人の横顔に影を落としている。癖のある黒髪。日に焼けた頬。顎の線。
「一つ、話してもいいですか」
「どうぞ」
「仕事の話ではありません」
「……知っています」
仕事の話なら、この人は敬称をつける。外すのは──技師ではなく、人間として話す時だ。
ニコラウスが、ゆっくりと息を吐いた。
「平民の技師として、二十年近く仕事をしてきました」
声が低かった。いつもの安定した技術報告の声ではない。もっと奥の方から出ている声だ。
「ザールフェルト公国の河川局に入ったのが十四の時です。見習いから始めて、測量を覚えて、設計を学んで。二十歳で正式な技師になりました。それから十年以上、何十もの領地の河川を見てきた」
図面の上の手が、わずかに動いた。
「貴族の領地です。公国から技術支援で派遣される先は、大抵が国境沿いの──辺境に近い領地でした。河川の問題を抱えている場所。堤防が脆い場所。水害の恐れがある場所」
蝋燭の火が揺れた。窓の外で、風が吹いたのだろう。
「そういう領地には──たいてい、有能な妻がいました」
息が、詰まった。
「領主は王都に出ていて不在で、領地の実務は妻が回している。堤防の補修も、水路の管理も、帳簿も、交易も。全部妻がやっている。──けれど報告書には領主の名前しか載らない」
ニコラウスの声に、感情が滲んだ。抑えようとしている。抑えようとして、抑えきれていない。
「何度も見ました。何十回も。有能な妻が、名前を呼ばれないまま、一人で──」
言葉が途切れた。
蝋燭の火が真っ直ぐに戻った。風が止んだ。静寂の中に、ニコラウスの呼吸だけがある。
「声をかけたかった」
掠れた声だった。
「『あなたの仕事は見えている』と。『名前を呼ばれるべきだ』と。──けれど、言えなかった」
ニコラウスが顔を上げた。私を見た。
「平民の技師が、貴族の妻に声をかける立場にはなかった。余計な口を挟めば、領主の機嫌を損ねて派遣が打ち切られる。技術支援が止まれば、堤防が壊れる。堤防が壊れたら、困るのは領民です」
だから、黙った。
何度も。何十回も。有能な妻が評価されない家を見て、黙って図面を描いて、帰った。
「カタリーナが──」
名前を呼ぶ声が、震えた。
「カタリーナが最初ではなかった」
心臓が、鳴った。
「有能な妻は、何人もいた。けれど──自分で立ち上がった人は、カタリーナが初めてだった」
蝋燭の光の中で、ニコラウスの目が光っていた。潤んでいるのではない。──いや、潤んでいた。この人は泣かない人だと思っていた。数字と図面と石積みの人。感情を行動でしか示せない人。
けれど今、目の縁に光が溜まっている。
「引き継ぎ資料を三百二十四頁書いて、全部返して、子供を連れて出ていった。俺が──私が何十年かけても声をかけられなかったことを、あなたは一人でやった」
声が、最後の方で崩れた。技師の声ではなくなっていた。ただの──三十二歳の男の声だった。
私は──しばらく何も言えなかった。
言えなかったのは、喉が詰まったからではない。この人が二十年間抱えていたものの重さを、今初めて知ったからだ。
何十もの領地。何人もの有能な妻。名前を呼ばれないまま、一人で仕事をしていた女性たち。ニコラウスはその全てを見てきた。見てきて──声をかけられなかった。
それが、この人の傷だった。
五年間の書簡の末尾に「お体を大切に」と書き続けたこと。成果報告書に私の名前を明記したこと。図面を私の側に向けて置き続けたこと。全部──あの傷から来ていたのだ。
声をかけられなかった人が、書簡でなら言えた。報告書でなら書けた。図面の向きでなら示せた。
「ニコラウス」
名前を呼んだ。敬称なしで。
「あなたは私を救ったのではない」
ニコラウスの目が──見開かれた。
「待っていてくれたのだ」
静寂。
蝋燭の火が、真っ直ぐに立っている。揺れない。風もない。二人の呼吸だけが、作業場の空気を震わせている。
「声をかけられなかったと言ったわ。余計な口は挟めなかったと。──けれど、書簡は書いた。五年間。技術の話に混ぜて、『ご判断は正しい』と。『素人ではない』と。『お体を大切に』と」
声が、自分でも驚くほど穏やかだった。
「あれは声ではなかったかもしれない。けれど──届いていたわ。毎回、届いていた」
ニコラウスの目から、光がこぼれた。
涙ではなかった。涙にはならなかった。目の縁に溜まった光が、蝋燭に照らされて一瞬だけ筋を引いて──すぐに、この人は袖で拭った。
技師が泣くのを見たのは二度目だ。一度目は書斎で手を重ねた日。あの時も、涙はこぼれなかった。目の縁で光っただけだった。
この人は──泣きかけて、止める。止めて、仕事に戻る。いつもそうだ。
「……すみません」
「謝らないで」
「いえ。──すみません、ではなく」
ニコラウスが袖を下ろした。目が赤い。けれどまっすぐだった。
「ありがとうございます」
その一言が──五年分の書簡より重かった。
◇
しばらく、二人とも黙っていた。
黙ったまま、図面に向き直った。数字を書く。線を引く。石材の配置を決める。
言葉は要らなかった。図面の上を二本のペンが走る音だけが、作業場に響いていた。
茶を淹れた。二つ分。蜂蜜は──ニコラウスの分だけ、半匙多く。
カップを差し出した時、ニコラウスの指が私の指に触れた。温かかった。泣きかけた後の、少しだけ熱を持った指。
何も言わなかった。
茶を飲んで、図面に戻った。
蝋燭が短くなっていた。替えの蝋燭は──ニコラウスが、もう棚から出していた。新品を。何も言わず、古い蝋燭の隣に置いて。
(この人は──今夜も、蝋の長さで気遣う)
声をかけられなかった人が、蝋燭を替えることで、ここにいると示している。
◇
翌日。
管理事務所に、エーリヒからの手紙が届いた。
リンデン伯爵領から転送されたもので、日付は五日前。学園の消印が押してある。エーリヒの筆跡は、半年前より少しだけ安定していた。
『母上
学園は概ね順調です。寮の食事は可もなく不可もなく。法律の授業が始まりました。教官は厳しいですが、既に読んだ条文が多いので困りません。ヴェーバー先生の付箋のおかげです。
一つ、ご報告があります。
テオと話すようになりました。
最初は向こうが避けていました。僕が誰の息子か知っていて、距離を置いていたのだと思います。けれど同じ授業で隣の席になった日に、教科書を忘れたテオに僕のを見せたら、そこから少しずつ話すようになりました。
あの子は──父上が何をしたか、知っています。
母上が辺境伯領で堤防を直していたことも、帳簿をつけていたことも、離縁のことも。全部知っていると言いました。
でも、怒ってはいなかった。
悲しそうでした。
怒りではなく、悲しみだったのが──僕には、少し意外でした。僕なら怒ると思います。けれどテオは怒っていなかった。ただ黙って、窓の外を見ていました。
あの子は入学式の日に言いました。「父は門の外にいた」と。
知っていたのです。門の外に立っていたことを。入る資格がないことも。
それでも、怒ってはいなかった。
テオは強い子だと思います。
堤防の復興、お体に気をつけて。
エーリヒ』
手紙を膝の上に置いた。
──あの子は、知っていた。
門の外に、父親が立っていたことを。入る資格がなくて、鉄格子の外から中を見ていたことを。
十歳の子供が、そのことを知っていて──怒らなかった。悲しんでいた。
(エーリヒは怒った。応接室で、父親に「堤防を直していた時、どこにいたのですか」と問いかけた。あの子の反応は、怒りだった)
(テオは──悲しんだ)
同じ父親の不在を、二人の子供が別の形で受け止めている。
エーリヒは怒りを法律書に変えた。テオは悲しみを──どこに向けたのだろう。窓の外を見ていた、とエーリヒは書いた。窓の外に何があったのか。空か。街並みか。それとも──門の外に立っていた父親の幻を。
手紙を畳んで、封筒に戻した。
窓の外で、ラウシュ河の水音が聞こえている。秋の夕暮れ。蜂蜜草の匂い。崩壊した堤防の残骸が、低い光の中に影を落としている。
あの堤防の向こうに、かつて領民たちが暮らしていた。パン屋のおかみも、水車小屋の老人も、識字教室の子供たちも。
テオは──あの子は、王都で育った。ルートヴィヒの別邸で。ロゼッタと二人で。父親が「出張」から帰ってくるのを待ちながら。
エーリヒが「もうすぐ帰るの」と聞くたびに「もうすぐよ」と答えたあの十年間、テオもまた──「父上はいつ来るの」と聞いていたのだろうか。
答えは同じだったのだろう。「もうすぐよ」。
二つの家で。二人の子供に。同じ嘘を。
(あの子たちに罪はない。どちらにも)
手紙を引き出しにしまった。
作業場に戻った。図面が広がっている。ニコラウスのペンの跡。昨夜の茶の痕。
ペンを取った。
新しい堤防の設計を、続ける。この堤防は──あの子たちのためではなく、この領地のために作る。けれどこの領地が安定すれば、あの子たちの世界も少しだけ静かになる。
線を引いた。一本。まっすぐに。