軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第2話 三百頁の辞表

三百二十四頁。

十年分の仕事を、三ヶ月で紙に落とし込んだ。

書斎の机の上に積まれた資料の束を、私はしばらく眺めていた。農地の作付け計画。水利権の契約一覧と更新時期。堤防の補修記録と点検スケジュール。識字教室の教師への支払い条件と授業計画。交易商ごとの取引条件と信用度の覚書。領民百十二世帯、一軒ずつの事情メモ。

最後の一頁に、署名を入れた。日付は今日——王都から戻って、ちょうど三ヶ月。

「奥様……」

マルタが、資料の束を両手で持ち上げようとして、その重さに目を見張った。

「これを、全部お一人で……」

「普段やっていることを書き出しただけよ」

そう答えながら、自分でも少し驚いていた。書き出してみると、こんな量になるのか、と。頭の中にあるうちは、ただの日常だった。水門の開閉は季節で変える。ラウシュ河の水利権は上流のヴァルデン村との協定がある。穀物商のブレーメ氏は値引き交渉に弱いが品質は確か。ミュラー家の末の子は足が悪いから識字教室の席は入口近くに——

全部、私の頭の中にあったもの。

それを紙にすると、三百二十四頁になった。

マルタの目から、涙がこぼれた。

「……泣かないで、マルタ」

「申し訳ございません。ただ——」

マルタは資料の束を胸に抱くようにして、声を絞り出した。

「これだけのことを、十年間、お一人で」

知っている。マルタは知っている。月の半分が空席の執務室で、私が毎晩蝋燭を灯していたことを。エーリヒの夜泣きをあやしながら、翌朝の水門点検の段取りを頭の中で組んでいたことを。

「いいの。全部、必要なことだったから」

資料の角を揃え直す。角がきっちり合うと、少しだけ気持ちが落ち着いた。

ふと、机の端に置いた書簡の束が目に入った。ザールフェルト公国の公印。ヴェーバー技師との五年分の技術書簡だ。堤防の設計や治水の相談を重ねたやり取りで、引き継ぎ資料を書く際にも何度か参照した。

一番上の書簡の末尾が、目に留まる。

『——どうかお体を大切に。貴方が倒れたら、あの堤防を守れる人間がいなくなる。』

技術者らしい、不器用な気遣いだと思った。公式書簡の定型文には、こんな一文は入らない。

(……ヴェーバー技師にも、引き継ぎの連絡をしないと)

書簡を元に戻した。これは仕事の資料だから、持ち帰る。実家に戻ってからも治水の知識は役に立つだろう。

——さて。

私は椅子から立ち上がり、背筋を伸ばした。

今日、ルートヴィヒが王都から戻る。

執務室の扉を開けたとき、ルートヴィヒは窓際に立っていた。

旅装を解いたばかりなのだろう。上着の襟元がわずかに乱れている。三十二歳の辺境伯は相変わらず姿勢がよく、栗色の髪が夕日に透けて——

(この顔を、十年間、信じていた)

「カタリーナ。ただいま戻った。王都の用件は順調に——」

「お帰りなさいませ、ルートヴィヒ様」

私は微笑んだ。いつもと同じように。三ヶ月間、ずっとそうしてきたように。

「お疲れのところ恐れ入りますが、お渡ししたいものがございます」

机の上に、二つのものを並べて置いた。

左に、三百二十四頁の引き継ぎ資料。

右に、離縁請求書。

ルートヴィヒは、まず薄い方——離縁請求書に目を落とし、それから分厚い方を見た。

笑った。

「冗談だろう、カタリーナ」

声に余裕があった。十年間、この人はこういう声で笑ってきた。私が何を言っても、最後には「大丈夫だ」「任せておけ」で終わらせる、あの笑い方。

私は何も言わず、引き継ぎ資料の表紙をめくった。目次だけで四頁ある。

「農政、治水、教育、交易、財政、人事。各分野の業務手順と年間スケジュール、関係者の連絡先と留意事項を記載してあります。補足資料は巻末に」

ルートヴィヒの目が、目次を追った。

頁をめくる。治水の章だけで五十頁。水門の図面、堤防の断面図、季節ごとの水位記録、上流村との協定書の写し。

もう一度めくる。交易の章。取引先ごとの契約条件、過去五年の価格推移表、信用格付け。

もう一度。教育。識字教室の教師の経歴と給与体系、生徒名簿、教材の発注先。

ルートヴィヒの頁をめくる手が、止まった。

顔から、色が消えていた。

「冗談だろう」とは、もう言わなかった。

「……なぜだ」

掠れた声だった。

「理由をお聞きになりたいのですか?」

私は微笑んだまま答えた。

「王都の薔薇は、とてもきれいでしたわ」

沈黙が、執務室を満たした。

壁の時計の振り子が三回揺れるのを、私は数えた。ルートヴィヒの顔に浮かんだものは——驚愕でも、怒りでも、悲しみでもなかった。

恐怖だった。

(……ああ、この人は今、何を恐れているのかしら。私に知られたことではなくて、これから何を失うかを計算しているのでしょうね)

けれど、それを口にする気はなかった。追い詰めても意味がない。私はもう、この人と言い合うつもりはないのだから。

「離縁の条件を申し上げます」

声が事務的になるのを、自分で感じた。帳簿をつけるときの、あの淡々とした調子。

「一つ、持参金の全額返還。二つ、エーリヒとリーゼの親権。三つ、実家リンデン伯爵領への帰還を認めること。以上です」

ルートヴィヒが何か言いかけた。

私はそれを待たず、引き継ぎ資料の表紙に手を置いた。

「全てお返しいたします。一つ残らず」

翌朝は、よく晴れていた。

荷造りは昨夜のうちに終わっていた。十年分の暮らしのわりに、私物は驚くほど少なかった。衣類と、子供たちの本と、帳簿の写しと、そして——

ヴェーバー技師からの書簡の束。五年分。

(仕事の資料だから、持ち帰る。治水の知識は、どこにいても使えるから)

それだけの理由で、それだけのはずで。なのに荷物に入れるとき、指先が少し温かかった。

領地の広場に、人が集まっていた。

噂は早い。辺境伯夫人が発つという知らせは、一晩で領内に広まったらしい。朝靄の残る広場に、見慣れた顔がずらりと並んでいた。

「お母さま——」

最初に声を上げたのは、パン屋のおかみだった。この人の店が傾きかけたとき、交易路を組み替えて小麦の仕入れ値を下げる算段をしたのは、三年前の冬のことだ。

「お母さま、行かないでください……」

声が広がる。水車小屋の老人。識字教室の子供たち。堤防の工事で一緒に泥まみれになった若い農夫。

エーリヒが私の横で、まっすぐに前を向いていた。九つの小さな肩に力が入っている。リーゼはマルタの手を握って、何が起きているのかまだよく分かっていない顔をしていた。

「大丈夫です」

私は、集まった領民たちに向かって微笑んだ。

「引き継ぎの資料は、全てルートヴィヒ様にお渡ししました。皆さんのお仕事のこと、畑のこと、水路のこと、全部書いてあります。何も心配いりませんよ」

——本当に、大丈夫だろうか。

その疑問を、呑み込んだ。

「十年間、ありがとうございました」

頭を下げた。辺境伯夫人が、領民に頭を下げている。礼儀としては正しくないのかもしれない。でも、この人たちに頭を下げずに去ることは、私にはできなかった。

ざわめきが、嗚咽に変わった。

マルタが、私の背中に手を添えた。

「奥様。——お時間です」

「ええ」

馬車に向かう。一歩、二歩。振り返らない。振り返ったら、十年分の重さに引き戻される。

馬車の扉に手をかけたとき、マルタが横に立った。泣いていた。涙を拭いもせず、まっすぐに私を見て、言った。

「奥様は、何一つ恥じることがございません」

……ああ。

「——ありがとう、マルタ」

声が、ほんの少しだけ、震えた。

それだけだった。それだけで十分だった。

馬車に乗り込む。扉が閉まる。車輪が動き出す。領民たちの声が遠ざかっていく。

鞄の中で、三百二十四頁分の仕事が、もう他人のものになっている。

手元に残ったのは、帳簿の写しと、五年分の書簡と、二人の子供と、十年間で身についた、いくつかの技術。

それと、この微笑みだけ。

——上等だわ。