軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第30話

結婚から、半年が経った。

グレイウルフ領は、かつてない繁栄を迎えていた。特効薬の輸出は順調に拡大し、領地の収入は前年比で十倍に達しようとしていた。城下町には新しい店が次々と開業し、ヴァルドハイムや他国からの薬師見習いたちが移り住み、街は活気に満ちていた。

薬草園は、倍の広さに拡張された。

アンジェリカは、リーゼたち数名の弟子を育てながら、新しい研究に没頭していた。疫病記録の体系化、北方薬草の詳細な標本作り、そして——長年の研究成果をまとめた、一冊の本の執筆。

その本は、夏の終わりに、ついに完成した。

題は、『北方薬草学の手引き』。

本は、ヨハンの手配で、王都の印刷所に送られ、そこから大陸全土に広まっていった。

簡潔で分かりやすい文章、数多くの精密な挿絵、実用的な処方集——アンジェリカの本は、またたく間に、医学界で話題となった。王立医学院の教授たちから絶賛の書評が寄せられ、各国の宮廷医師が、教本として採用した。

「北の聖女」の名は、大陸全土で、知らぬ者はないほどになった。

けれど、アンジェリカ自身は、その評判に全く動じなかった。

彼女にとって、本の価値は、名声ではなく——それが、一人でも多くの命を救う手立てとなることに、あったのだから。

秋の、ある静かな午後。

アンジェリカは、城の東翼の研究室で、新しい原稿に目を通していた。次は、小児医療に関する本を書こうと思っていた。子どもの病に特化した薬草の処方を、体系化したかったのだ。

扉が、控えめに叩かれた。

「入るぞ」

ディルクハルトだった。

彼は、相変わらず、忙しそうだった。領地の拡張、国境警備、新しい交易路の整備——仕事は、尽きなかった。それでも、彼は、一日に必ず一度は、彼女の研究室に顔を出すのを、欠かさなかった。

「お仕事は、一段落ついたのですか?」

「ああ」

彼は、アンジェリカの隣に、椅子を引き寄せて、腰を下ろした。

「少し、休憩に来た」

「まあ、珍しい」

彼女は、くすくすと笑った。

彼は、彼女の机の上に広げられた原稿を、ちらりと覗き込んだ。

「次は、子どもの薬か」

「はい。あの子たちを、これから一人も失いたくありませんの」

「……そうか」

ディルクハルトは、静かに頷いた。

彼は、しばらく、彼女の横顔を見つめていた。

窓の外から、秋の陽が、斜めに差し込んでいた。アンジェリカの頬の曲線が、柔らかく、光に縁取られていた。

「——アンジェリカ」

「はい?」

「最近、少し、顔色が良すぎるな」

「そうですか?」

「食事も、前より多く摂っているようだ。ヨハンが、そう言っていた」

アンジェリカの頬が、わずかに、染まった。

「まあ……ヨハンったら、何でもお見通しですのね」

彼女は、少し躊躇うように、机の上で手を組んだ。

それから、深く、息を吸った。

「ディルクハルト様」

「なんだ」

「実は——」

彼女は、そっと、自分のお腹に、手を添えた。

「今朝、診療所の女医に、確認していただきましたの」

ディルクハルトの動きが、止まった。

彼の灰青色の瞳が、彼女の手元に、落ちた。そして、ゆっくりと、彼女の顔へと、戻ってきた。

「……本当か」

「はい」

アンジェリカは、にっこりと微笑んだ。

「春先に、お父様になれそうですわ」

ディルクハルトは、しばらく、言葉を失っていた。

彼の表情は、滅多に崩れない。戦場でも、政治の場でも、彼はいつも冷静そのものだった。だが、今、この瞬間——銀狼卿の顔は、まるで少年のように、ひどく動揺していた。

「……そうか」

「はい」

「——そうか」

彼は、もう一度、呟いた。

それから、ゆっくりと、ディルクハルトは、立ち上がった。

彼は、彼女の前に片膝をつき、そっと、彼女のお腹に、手を重ねた。

大きな、武骨な、無数の傷のある手。

その手が、彼女のお腹の上で、震えていた。

アンジェリカは、そっと、彼の手の上に、自分の手を重ねた。

「ありがとう」

ディルクハルトは、囁くように、呟いた。

「わたくしの方こそ、ですわ」

彼女は、優しく、微笑んだ。

「ディルクハルト様が、あの森で、わたくしを見つけてくださったから——」

彼女の目に、涙が滲んだ。

「今、わたくしは、ここにおりますの」

彼は、立ち上がり、彼女を、そっと抱きしめた。

しばらく、二人は、何も言わずに、抱き合っていた。

窓の外では、秋の木の葉が、静かに舞っていた。薬草園では、リーゼが弟子たちに、何かを教える声が、遠く響いていた。城下町からは、子どもたちの笑い声が、風に乗って流れてきた。

何もかもが、ただ、静かで、穏やかだった。

その夜、アンジェリカは、窓辺に立って、北の星空を眺めていた。

肩に、ディルクハルトの外套がかかっていた。彼は、彼女の背後に、立っていた。二人は、何も言わずに、並んで、星を見上げていた。

アンジェリカは、ふと、思い出した。

一年前の、今頃——彼女は、王立学園の卒業パーティーで、婚約破棄されていたのだった。

——あの夜、わたくしは、自由を得たと思った。

彼女は、心の中で、呟いた。

——それは、本当でございました。でも、自由は、終わりではなく、始まりでしたのね。

ディルクハルトが、後ろから、彼女の肩に、そっと腕を回した。

その温かさに、彼女は、そっと身を預けた。

「何を、考えている」

「……一年前のこと、ですの」

「そうか」

「あの夜、断罪されたことが、今となっては——わたくしへの、最大の贈り物でございましたわ」

ディルクハルトは、小さく、笑った。

「俺も、そう思う」

「まあ」

「お前があの時、婚約破棄されずに王太子妃になっていたら——俺は、一生、お前と会えずにいた」

「ディルクハルト様……」

「王太子には、一生分の感謝を、しておこう」

アンジェリカは、思わず、声を立てて、笑った。

ディルクハルトも、彼女を背後から抱きしめたまま、低く笑った。

北の空に、星々が、冷たく、美しく、瞬いていた。

遠く、雪を戴いた山々が、月光に青白く浮かび上がっていた。

かつて、あの山で、月光草を採取した夜——アンジェリカは、自分の人生が、ここへ向かうことを、まだ知らなかった。

婚約破棄された夜の、「わたくしは、自由を得ました」という言葉は、確かに真実だった。

けれど、自由の先には、こうして、本当に愛する人と、共に歩む日々が、あった。

お腹の中の小さな命に、彼女は、そっと、手を添えた。

——あなたも、きっと、ここが、お家ですわ。

胸の中で、囁いた。

春が来れば、この小さな命は、この世界に降りてくる。辺境の、この温かな土地で、たくさんの人々に囲まれて、育っていく。

それは、どんな贅沢よりも、尊い未来だった。

ディルクハルトの腕に、力が籠った。

アンジェリカは、振り返って、彼を見上げた。

灰青色の瞳が、月光の中で、優しく、輝いていた。

「——ディルクハルト様」

「ああ」

「わたくし、今、世界で一番、幸福ですわ」

彼は、答える代わりに、そっと、彼女の額に、唇を落とした。

その、柔らかい触れ合いは、もう「遠慮」ではなかった。この人の夫であることを確かめる、穏やかで、揺るぎない、愛情の仕草だった。

北風が、窓の外を、静かに、吹き抜けていった。

辺境の城の、高い窓辺で——。

二人と、そして、まだ見ぬ小さな命は、これから始まる長い、長い物語を、共に、紡いでいく。

月光が、二人を、祝福するように、照らしていた。