作品タイトル不明
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サフィニアは誰か、大切な人を失ったのだろうか。
(もしかして、アナの父親か……?)
だがしかし、修道女になることを夢にしていた娘が、軽率に恋に落ち、あまつさえ子供まで作るだろうか。
無理矢理ならば理解できるが、そうなると相手が死んだとしても彼女が冥福を祈ることはないだろうし、サフィニアを妹分と称したエスターもそれは同じだろう。
別れ際、ではまた、とのたまったエスターにシリウスは眉根を寄せたが、サフィニアが嬉しそうに応じていたのでなにも言えずに終わってしまった。
聖職者相手に間違いは起きないと信じているが、どうにも腹の奥の方で、もやもやとした不快感が渦巻いている。
(なんなんだ、この感情は)
はじめて感じる胸のむかつきだ。常日頃、王太子のつまらない冗談につき合っては腹の底に澱を溜め続けた弊害だろうか。
いっそしばらく仕事を休むべきではないか。
いい加減シリウスは自分が働き過ぎなことを自覚していた。このままでは本気で過労死する。
むしろなぜ今こうして生きているのか不思議なくらいだ。
「……旦那様?」
サフィニアの戸惑い混じりの声かけに、シリウスははっと我に返った。
つい考えごとに集中していたせいで、馬車を待たせていた場所からずいぶん離れた、市街地方面へと歩いて来てしまっていた。
観光者向けの飲食店や各種店舗の立ち並ぶエリアで、人波に紛れてシリウスはしばし立ち尽くす。
予定ではあのまま帰って自宅でディナーの流れのはずだったが、どうにもデートとして成立した気がしていない。
デートのなにを知っているのかと問われたら困るが、少なくとも、妻の兄貴分が介入してきた時点でデートではなくなった。たぶん。
「すまない、疲れたか?」
「いいえ、歩きながら街並みを楽しんでいました」
だが、と口にしかけて、自分の手が、サフィニアの手としっかりと繋がれていることに気がつき、動揺した。
慌てて離そうとしたのだが、なぜ離す必要があるのか、このままでも問題ないではないかと思い直して、堂々と繋いだままにしておくことにした。
サフィニアははじめて街に出たのだ、迷子になられては困る。彼女に合わせて歩調を緩めつつ、これも含めてすべて予定調和だというような顔で歩きはじめた。
「ずいぶんと人もお店も多いのですね」
「ああ。このあたりも一応王都の端っこに位置しているからな。大聖堂を見に来た観光客の多くがこちらに流れて来るから、土産物屋なども多い」
街の中に運河があることで、少し汗ばむくらいの陽気の中でも涼しく感じる。
いくつか船が通り過ぎるのをサフィニアと一緒に橋の上から見下ろし、その後は目についた店舗を順番に回って行くことにした。
やはりナスラ神のお膝元だからか、月と星をモチーフとしたものが非常に多く、売れ行きもいいようだ。
サフィニアがアナへの土産に月型と星型のクッキーを買うのを眺めながら、ふと、出かけにした約束のことを思い出した。
「今度はアナも連れて牧場に行こう」
シリウスがアナを連れて出かけると言ったことがよほど意外だったのか、それとも、なんの脈絡もなく牧場が出て来たからなのか、サフィニアはまんまるな目でこちらを見上げてきた。
「実は、アナにポニーを飼うことを約束した」
「ポ、ポニー、ですか? なぜそんな急に……?」
「アナは馬が好きらしい」
「え? そう、でしたか……? 馬……?」
どうやらアナは、サフィニアには馬が好きなことを言っていないらしい。なんとなく優越感に浸りつつ、ちょうど棚の上でひとつだけ売れ残っていた馬のぬいぐるみと目が合ったので、これも縁かと手に取った。
思ったよりも手触りのいい茶色い毛並みをしており、ぬいぐるみらしく四肢が短めで、愛嬌がある。つぶらな瞳は黒ではなく翠色の石で、ブリリアントカットされたエメラルドのようにも見えるが、宝飾店ではないのできっとガラスかなにかを加工したものだろう。
「とはいえ、そうすぐに手に入るものでもないし、どうせならアナが気に入るポニーがいいだろう。しばらくはこのぬいぐるみで我慢してもらうか」
「それなら安心ですね」
やはり生きた馬には不安があるのか、あからさまに胸を撫で下ろしているサフィニアに、買ったばかりの馬のぬいぐるみを手渡した。
値札がなかったせいで会計に少し手間取ったが、職人の一点ものだったのだろう。言い値を払ったものの、思ったよりも安く済んでよかった。
「旦那様から渡してあげた方が喜びますよ」
そう言われてぬいぐるみを受け取り引き下がったが、昔、甥がアナと同じ年齢のときに、ぬいぐるみをあげたら思い切り泣かれたような気がするのだが。
つぶらな瞳のかわいらしいぬいぐるみと、冷たい相貌のシリウスとの対比が恐ろしかったらしい。
そんなわけでシリウスとぬいぐるみは相性が悪いのだが、サフィニアは気にならないらしい。
ぜひにと言うのなら、仕方ない。シリウスは馬のぬいぐるみを片手に歩き出した。
「しょっちゅう連れては来れないから、もしなにかほしいものがあるなら、遠慮せず買うといい」
「よろしいのですか……?」
「きみはもう少し物欲があってもいいのではないか? 浪費はするなとは言ったが、慎ましやか過ぎてこちらが落ち着かない」
「今でも十分なほどお与えになってくれていますよ。それに、必要なものは執事長さんがいつも事前に察して用意してくださいますし、旦那様には今日、この素敵なワンピースをもらいました。ありがとうございます」
大したものではないのに、嬉しそうにスカートの裾を摘んだサフィニアの様子に心が満たされる。
「気に入ったのなら、よかった」
人に服を贈ったのははじめてだが、自分の選んだものを喜んで身に纏ってくれることは存外悪くない気持ちだった。
今度はもっといいものを贈ろうとさえ思う。
「……そうだ。なにか揃いのものでも買うか? こういうとき、揃いのものを買うのが定番だろう?」
シリウスとて、さすがにそれくらいの知識はある。王太子と側近たちの無駄なおしゃべりがまた役に立った。
「こういうときと言いますと……?」
「だから、デートだ。今、しているだろう」
「デート!?」
サフィニアが驚きも露わに、みるみる顔を紅潮させていく。
「なんだ、気づいていなかったのか……」
少々落胆するも、その反応自体は悪くない。
これまでシリウスを眺めてうっとりとしながら顔を赤くさせていた女たちは発情期の猿にしか見えなかったのに、サフィニアだと初々しく映るので不思議だ。
やはり下心の有無だろうか。骨の髄まで食い尽くしてやるという肉食獣さながらのギラついた視線とは比べものにならない、恥じらった表情をするサフィニアには無害な小動物のような愛らしささえ感じた。
「申し訳ありません、デートなんて、したことがなかったので……」
「……はじめてなのか?」
なぜだろう、気持ちが急浮上する。清廉な美しさを持つ彼女が、誰の目にも止まらないなんてことはなかったはずだ。男に誘われることも、一度や二度ではなかっただろう。
「デートという形で出かけたのは……旦那様がはじめてです」
そんなサフィニアに、シリウスは知らず知らずのうちに食い気味に詰め寄っていた。
「本当か? さっきの、エスター神父ともないのか?」
結局彼の役職がわからずじまいだったので、ひとまず神父と敬称をつけておくことにした。
サフィニアはわずかに身を引きつつも、昔を懐かしむような口調で答える。
「え、ええ……。一緒に出かけることもありましたが、エスターにとっては押しつけられた子守りのようなものだったと思いますし、わたしにとっては兄みたいな存在だったので、そういう雰囲気になることはありませんでした」
「そうか」
シリウスは満足げにうなずいた。
心なしか、馬のぬいぐるみも嬉しそうだ。
「お互いはじめてのデートだ。やはり記念になにか揃いのものを買おう」
シリウスは近くにあった小洒落た雑貨屋に足を踏み入れた。サフィニアが好きそうな月と星の意匠の小物で溢れている。
しかしサフィニアは周囲に目を向けず、不思議そうにシリウスを見上げていた。
「どうした?」
「お互いはじめて……ということは、旦那様も誰かとデートをするのは、はじめてのことなのですか?」
「ああ。これまで、必要性を感じなかったからな。やれどこどこに行きたい、あれが食べたい、これを買って、などとうるさい者のために、せっかくの休日を無駄に過ごす意味がわからない。そんな話を聞いているだけで、胸焼けがしていた」
「人のお話だけで、お腹いっぱいになってしまわれたのですね」
「そんなところだ。自分から誰かと出かけようと思ったこともあまりない。甥くらいなものだ」
気弱なわけではないが気持ちが優しい子なので、両親に遠慮して家でひとり遊びしていた甥に、シリウスは子供の好きそうな場所を探しては連れ出していた。もう何年も前の、まだ時間に余裕があった頃の話だ。
「甥っ子さんは、学院の寄宿舎に入られているのですよね? もうすぐ長期休暇だと思うのですが、こちらにお帰りにはならないのですか?」
「いや、母親が静養している領地の方に帰る予定だと聞いている」
「ご病気なのですか?」
サフィニアがどこからか平癒祈願のお守りを持ってきたので元の場所へと戻しておく。これだけある商品の中で、一瞬で目的のものを見つけ出す能力が末恐ろしい。
果たして土産物屋にあるようなお守りが効くのだろうか。
なにごとも気の持ちようということなのか。
「病気というわけではなく、突然兄が亡くなったことで……気落ちしてしまったようだ。兄との思い出の多いこちらにいるよりは、静かな場所で休んだ方が心も癒えるだろうと甥と話し合い、今は領地経営を少し手伝ってもらいながら、自然の中でゆっくりと過ごしてもらっている。……追い出したみたいで心苦しくはあるが」
「そんなことありません。お義姉様も、旦那様たちのお心をちゃんと理解していると思いますよ」
「だといいが」
「知り合って日の浅いわたしですら、旦那様がお優しいことを知っているのです。伝わっていますよ、きっと」
サフィニアはシリウスを優しいと言うが、本当に優しいのは彼女の方だ。サフィニアが周囲にそう振る舞うから、周りの気持ちも優しくなる。
人の心は鏡写し。
親切をすれば親切が返ってくるし、その逆も然り。
「旦那様、お揃いのものを買うのでしたら、お互いに身につけられるものがよいのではないでしょうか?」
装飾品をねだっているようにも聞こえるだろうが、相手はサフィニアだ。シリウスは別方面の警戒をして、瞬時に身構えた。
「私はナスラン聖教の装身具は持たないぞ」
シリウスはサフィニアの首にかけられたネックレスをちらりと見やった。
急に信仰心に目覚めたなどと噂されても、シリウスはこの国に一番多い、冠婚葬祭と困ったときにだけ神に頼るタイプのにわか信者なので非常に困る。
「さすがに信仰心を押しつけるようなことはしませんので、ご安心ください」
てっきり布教されるのかと思いきや、苦笑しながらきっぱりと否定された。
「信仰心とは、無理に持つものではないのです。神に縋る必要のない方は、そのままでいいのだとわたしは思っています。ですから無理してわたしに合わせようとなさらなくても、旦那様は旦那様が信じるものを大切になさってください」
「そういうものか?」
「ええ。……でも、そうですね……そう考えるとわたしは、あまり熱心な信者ではないのかもしれませんね……」
シリウスは思わず憂い顔をしているサフィニアを二度見した。
「きみでにわかなら、私はどうなる」
教会など、近くにあっても本当に片手で数えられるくらいしか訪れたことがないのに。
「ナスラ様はそこまで狭量ではありませんよ。信仰心の強さで贔屓などなさらないでしょう。神様なのですから」
神相手に張り合っても仕方ないが、ナスラ神は男神だ。サフィニアの理想の男性像も、やはりナスラ神のような男なのだろうか。
大聖堂にあった彫刻を思い浮かべてみても、軍神のような男でも見惚れる肉体美を持っていた。
対するシリウスはと言えば、仕事の多忙さによる運動不足と日々の心労で、昔よりも痩せた気すらしていた。
やはり少し筋肉をつけよう。
シリウスは密かにそう決意した。