作品タイトル不明
57 番外編11 はじめての学院2
その後、なんとか別館まで到着したシリウスは、途中何度も道草をしたアナとジョシュア王子に振り回された疲労を抱えたまま、指定された教室へとまっすぐに向かう。
順調に廊下を進んでいたが、途中でアナがぴたりと歩みを止め、急に周りを見渡すようにきょろきょろとしだした。
「……おうた? おうた、どこ……?」
耳を澄ませると、ダンスの練習曲がかすかに風に流され聞こえてきた。
「……ああ、どこかでダンスの授業でもしているのだろう」
厳密には歌は入っていないのだが、アナからしたら音楽はすべて歌の一種らしい。どんな曲でも立ちどころに歌詞をつけてしまえるアナならではだ。
ダンスと聞き瞳を煌めかせたアナは、得意げにその場でとたとた謎のステップを踏みはじめた。触発されたジョシュア王子も真似して同じようなステップを披露する。……酔っ払いの千鳥足だろうか。近衛たちから、なんとも言えない眼差しを注がれている。
まだ三歳なので、うまくできなくても当たり前で、それは仕方ないことなのだが、やはり我慢できずにシリウスはふたりを向き合わせて、互いの手と手を握らせた。
「これが基本の形だ」
併せて簡単なステップも教えようと思ったのに、なにを思ったのか、ふたりは手を繋いだままその場でぐるぐると回りはじめた。
「違う、待て、違う!」
怖いくらいに笑いながらただひたすらに右回転し続けるふたり。次第に加速する回転。止めどころがわからずおろおろとするシリウスがあてにならないと判断したのか、サフィニアが両手を広げながらふたりに声をかけた。
「ここがゴールよ。一等賞は、どちらかなー?」
すると狂ったように走っていたふたりが嘘みたいにぴたっと回転をやめ、我先にとサフィニアの胸へと飛び込んだ。まっすぐ走れるところを見ると、どちらも目は回ってはいない。三半規管が強くてなによりだ。
「同着! ふたりとも一等賞!」
ふたりは顔を見合わせて喜ぶ。競い合いはしても、どちらも勝敗にはさほどこだわりはないタイプらしい。
執事長が上着の両ポケットから、すっとシロツメグサで編んだ小さな花冠を取り出し、サフィニアへと手渡した。彼女はそれをさして疑問に思うことなく、ふたりの小さな頭へと載せて褒め称える。
「いや待て」
花冠などいつ編んだ。執事長に目で問いかけたが、答えが返って来ることはなかった。
もしや執事長のポケットは、別次元と繋がっているのだろうか。今も懐にジェノベーゼ用のにんじんのぬいぐるみが常備されているはずなのに、胸板以外の膨らみは見当たらない。
無言でじっと見つめていると、アナが足にしがみついてきたのでそちらへと意識を戻した。
「あな、いっとーしょー」
「そうか。よかったな」
アナが満足するまで褒めてから、ひと言つけ加えておく。
「だが、ぐるぐる回るのは禁止だ」
アナは目をぱちくりとさせた。なんのことを言われているのかわかっていない顔だ。まさかついさっきのことを忘れたのだろうか。清々しいくらいに過去に未練のない娘だ。
「ジェノベーゼとの舞踏会ごっこのときは、もっとちゃんとできていただろう?」
ジェノベーゼの前脚を持ってゆらゆら揺れていただけだが、まだワルツと言えなくもないゆらゆらだった。
するとアナは急に腰に手を当て、左右にスカートをふりふりさせながらまた不思議な踊りを披露しはじめた。
かわいいが、意味はわからない。
「それは、なんだ?」
「だんすはねー、せんすなのー」
「……センス?」
「あな、しゃいせんたん」
「最先端……?」
理解の及ばないシリウスには、アナの言葉を反芻するしかない。
とりあえず、その最先端ダンスが流行らないことを切に願った。
「おうた、うたうー」
「今日はお絵描きだろう」
アナがはっとする。そうだったとばかりに、意識を絵画教室へと切り替えた。
絵画教室だけでなく、音楽教室も探すべきだろうか。さすがにそちらにつても心当たりもない。今は絵の才能を伸ばす方を優先するかとアナと手を繋ぎ直したシリウスは、すぐにジョシュア王子を探した。幸いにもこちらはまだサフィニアの胸に抱きついたままだった。
元気なアナとは違ってジョシュア王子はぐるぐる走り回って疲れたのか、抱っこをねだっている。
「たぴぃ、だっこ! だっこぉー!」
(たぴぃ……)
主に王族を中心にサフィニアの名前がタピオカで定着しつつあるのを目の当たりにして眩暈がした。
タピオカ否定派のシリウスがもっと気をつけていなければならなかったのに、すっかりと忘れていた。今後はミルクティーに沈殿したタピオカを、ひと粒ひと粒取り去るくらいの根気を見せて警戒にあたらねばと気を引き締める。
ねだられるままにジョシュア王子を抱き上げたサフィニアを眺めていたアナは、抱っこしてほしそうな眼差しをシリウスへと注いだが、なぜか我慢してそのまま歩き出した。
「抱っこするか?」
「あな、おとななの」
「そうか」
羨ましそうにしているくせに頑なに大人だと言い張るアナを連れて、ようやく指定された美術室にたどり着いたときにはすでに疲れ果てていたが、今から授業がはじまるのだ。単なる引率役と言えど、疲れている場合ではない。
本格的な美術室を前に、当然ながらアナは目を輝かせて突進した。ジョシュア王子もサフィニアに下ろしてもらい、アナの後に続いて走り出す。
「危ない! アナ! そっちには彫刻がっ……待っ、ジョシュア殿下、危険です!」
彫刻に飛びつこうとするアナと、床に置かれた身の丈の倍以上ある大きいキャンバスに勝手に触ろうとするジョシュア王子を、シリウスは目が回る思いで回収すると、今日のために用意された低い長机と二脚だけ並んだ小さな丸椅子を見つけ、どうにかふたりをそこへと座らせた。
机の上にはそれぞれ紙が置いてあり、教壇にはりんごが積まれた籠が置かれている。デッサン用のりんごだろうか。それとも、軽食用だろうか。
わからないが、早くふたりをイザークに託して少し休みたい。
そう思いながらイザークを迎えるために廊下に出ると、予定時刻少し前だが、願いが届いたのか本人が現れた。
教員姿の彼ははじめて見るが、すっかり馴染んだ様子で、会話していた男子生徒たちと別れてこちらへとまっすぐ歩いて来る。
それはいいのだが、少し距離を取った背後から女生徒たちがぞろぞろとついて来ているように見えるのは、シリウスの幻覚だろうか。
手の届きそうなところに未婚の王族がいれば、見初められることを夢見る女生徒がいてもおかしくはないが、当のイザークにその気はまったくなさそうであり、背後を一瞥してから短くため息をつくと、早く自分の教室へと戻るよう声をかけた。
声をかけられただけで嬉しそうだが、明らかに部外者のシリウスやぞろぞろと美術室の周囲を固める近衛たちの存在が気になるらしく、なかなか去らずにひそひそしている。
この厳戒態勢の中突っ込んでくる猛者はいないようだが、この場において紅一点のサフィニアの存在を目に留めると、彼女たちの間に不穏な空気が漂ったので、シリウスはさりげなく自分の妻であることを知らしめるように腰を引き寄せた。
おかげでサフィニアに対する悪意ある視線は軽減したが、イザークからはなんとも言えない呆れ混じりの眼差しをいただいてしまった。
だが、こればかりは仕方ない。妻が面倒な妬みを買うよりましだとあまんじて受け入れた。
やはりシリウスが引率役でよかったのかもしれない。サフィニアだけならば、イザークといるところを見られただけでも今以上に仲を邪推され、帰るまでの間に嫌がらせの限りを尽くされたに違いない。
シリウスは引率役として、そしてアナの父親として、イザークへと丁重に挨拶をした。
「本日は娘たちのために貴重なお時間を割いていただき、心より感謝申し上げます。まだ幼く、なにかと面倒をおかけすることもあるかと思いますが、ぜひ寛大なお心でご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いいたします、イザーク殿下」
「長い。それと、先生」
訂正を入れられたので、シリウスは改めて、「本日はよろしくお願いいたします、イザーク先生」と、望まれたように短く言い直した。
(先生、か……)
どうにも言い慣れないが、慣れるしかない。
学院では先生、城では殿下。気を抜くと間違えそうだ。
挨拶を終えると、イザークはジョシュア王子の近衛たちに指示を出した。
「近衛はひとり残して、後は廊下で待機を」
本当は全員出て行くべきなのだろうが、おそらく王太子への配慮として、ひとり残すことを許した。
シリウスはサフィニアと一緒に、くれぐれもよろしくお願いいたしますと重ねて娘たちを頼み、おとなしく近衛たちと廊下に出た後、すかさず窓から中の様子を窺った。
声は聞き取れないが、アナたちの様子をハラハラしながら眺めていると、椅子に座ったふたりがこちらの視線に気づいたのか、振り返って手を振ってきた。シリウスの気も知らずに、本人たちは余裕そうだ。
イザークが教壇に立ち、おそらく軽く自己紹介をしてから、点呼を取りはじめた。アナの、うんー! という元気な声が漏れ聞こえてきて、胃のあたりが痛くなる。
どうしても、はい、と言えない娘だ。
ジョシュア王子も、うんー! と、そっくりな返事をしているのが救いだった。
ユーリからイザークの授業は厳しいと聞いていたが、ふたりの返事に対して特に指導は入らなかったようで、詰めていた息をどっと吐き出した。
「大丈夫ですか?」
サフィニアに声をかけられて素直に今の感情を吐露した。
「不安しかない」
「アナはお絵描きが好きですし、空気の読める子ですから平気ですよ」
空気を読んだ上での、うんー! なのだろうか。王族相手にそれでいいと思っているのなら、もうどうにもならない気がする。
アナを淑女に育てるのは諦めた方がいいのだろうか。とっくに予鈴が鳴ったのに、未だに美術室の周囲をうろつく女生徒たちを見ていたら、もうなにが正解なのかわからなくなってきた。淑女とは、一体なんなのか。
空気が読めるかどうかはさて置き、アナの元気なところは長所だ。それに年頃になれば大きな声を出すことを恥じらうようになるかもしれない。成長に期待だ。
ひとり納得したシリウスをよそに、室内ではさくさくと授業が進んでいるようだった。
赤、青、黄の色の三原色の絵の具だけが載せられたパレットをそれぞれ渡されたふたりは、みっつしかない色にはじめこそきょとんとしていたが、イザークが筆で青と黄を混ぜると、アナが興奮して立ち上がり、「じぇのべーぜ!」と叫んだ。
元気なのはアナの取り柄。シリウスは今一度自分へと言い聞かせる。
ジョシュア王子がイザークに倣って、赤と青を混ぜて紫を作り出し、アナも負けじと赤と黄を混ぜて橙を作る。それにイザークがなにかひと言ずつ添えている。
遊んでいるようにも見えるが、意外としっかり色についての勉強をしているようだ。
アナははじめて持った筆で、自らが作り出した色を、嬉々としながら紙へと滑らせている。ここでは机にはみ出しても怒られることはない。ふたりとも楽しそうだ。
この分だと帰りにでも絵の具や筆をほしがりそうな気がする。ちらりと見た執事長は、すでに購入リストとして手帳に画材と記載していた。いつもながら仕事が早い。
イザークが用意していた簡単な塗り絵に、アナとジョシュア王子は真剣にぺたぺたと色を塗っている。
普段から絵を描いているときは静かだと思っていたが、あんなに集中した顔で描いているとは思わなかった。
もし画家になるのならシリウスとしても協力は惜しまないつもりだが、残念ながらアナの将来の夢は相変わらずお姫様なので、今のところ協力できることはなにもない。
新しいドレスを買うのを黙認するくらいだが、それだってアナの資金から出ている。なのでシリウスは頭から否定だけはせずに、そうか、がんばれ、とだけ言うようにしていた。
なにはともあれ、イザークの手腕でふたりとも楽しく学んでおり、そう思ったらようやく肩の力を抜けた。
シリウスの心に余裕ができたので、今度は、アナとジョシュア王子の手元を見ながら指導しているイザークへと意識を移した。
イザークはふたりに平等に、あくまで先生として接しているが、彼自身がどう思っているのかは誰にもわからない。
だが、アナと触れ合うことのできる唯一のこの時間を、大切に思っていないはずがない。
アナのよくわからない質問にも真摯に答えるイザークを眺めて、血の繋がらない父親として不安にならないわけではないが、せめてこの短い時間だけでもと願う気持ちも同じようにある。
邪魔しないように、張りつかんばかりに近づいていた窓から離れて、穏やかに子供たちを見つめていたサフィニアへと声をかけた。
「アナは殿下に任せておけば大丈夫そうだから、今後のために学院内でも見て回るか? 見られていてはあちらも気が散るだろう」
「それもそうですね」
保護者に逐一観察され続けてはあちらも気まずいし、やりにくいことだろう。
「執事長、少し出て来る」
「では私は、なにかあったときのためにこちらで待機しております」
なにもないに越したことはないが、不測の事態に備えることは大切なことだ。
「わかった。少し時間を潰して終わる頃に戻って来る」
執事長に後を任せて、シリウスはサフィニアを連れて敷地内の案内をして回ることにした。次からはサフィニアに引率役を任せるつもりなので、この機会はちょうどいい。どこにどのような施設があるかの説明しながら、まだ先の話ではあるが、アナの学院入学についての意見を聞いてみた。
「よほどのことがない限りはアナは学院に入学させようとは思っているが、きみの意見もそれで相違ないか?」
「そうですね、アナが嫌がったらさすがに考えますが、今の段階で反対はしていません。学院に通って学べることはそれだけで幸運なことですし、ジョシュア王子が通うのならアナも一緒に行きたがると思います」
「アナが入学可能年齢になれば一緒に通えると思うが……そのときも今と同じ関係でいるだろうか? 男女だから、思春期になれば自然と距離を置くようになるのではないか?」
「お互い意識しはじめたらそうかもしれませんが……なんとなく、ふたりはずっとまぶな気がします」
“まぶ”とは、単純に一般的な友人関係のことだと思っていたが、それよりももっと、むしろ恋愛関係よりもずっと深い絆のことを指す言葉なのかもしれない。例えるのなら義兄弟のような関係だろうか。友人のいないシリウスには到底理解できない関係だが、そういう相手がいるのはアナにとってはいいことだ。
しかしそうなると互いの信頼関係があるゆえに、ジョシュア王子と結婚することはなくても、アナが側近になることは可能性としてあり得るのではないだろうか。
王太子の側近は男ばかりで占められているが、女性が側近になれないわけではないのだ。いらぬやっかみは買うだろうし、過酷な職務なので鋼の心身を持つ者でなければ難しいだろうが。
シリウスは自分と同じ道だけは、娘に歩かせたくないと思っていた。
過労死とまぶになるのは、自分だけでいい。
できることなら自分だって過労死とは他人でいたいと、遠い目をしながら思うシリウスだった。