作品タイトル不明
54 番外編8 前髪カット
シリウスは資料を取りに昼に一旦帰宅すると、体をすっぽりと覆う白のケープを巻きつけたアナが、必死の形相で駆け寄って来た。
裾がひらひら靡くケープは星の子の衣装にも似ているが、どちらかと言えば幽霊の仮装に近い。
いや、それよりもあれに似ている。てるてる坊主。
アナはシリウスの足の周りをぐるぐると回ってから、最後は背後で止まると、顔をぎゅっと押しつけるようにしてしがみついてきた。
「アナ? どうした?」
アナに声をかけつつ、なにげなく走ってきた方向へと目を向けると、ハサミを持ったサフィニアがずんずん追いかけて来ているのが見えてシリウスは息を呑んだ。もちろん閉じた刃の部分を握ってはいるが、なかなかに恐怖を感じる絵面だ。
固まっている間にサフィニアがシリウスの背後へと回り、アナはすかさず反対側へと飛び出した。
「待ちなさいっ、アナ!」
「やーなのー!」
なにが起きているのかわからない。だがとにかく、愛嬌とジェノベーゼしか持っていない丸腰のアナを庇わなくてはと思い、サフィニアをどうどうと馬にするように制したが、手にしているハサミが髪切り用であることに気づくと、今朝方彼女が、「そろそろアナの伸びた前髪を切らないと……」と、ぼやいていたことを思い出して状況を概ね理解した。
ならばアナを覆っているケープは散髪用のケープか。ケープの下からちらりと覗いたのは見覚えのある灰色の地味な服だった。例のいじめられる令嬢ごっこをするときの衣装だ。あの不謹慎な遊びはまだ飽きることなく定期的に続けられているらしい。
妻と娘が人の周囲をぐるぐる回っているのを眺めながら状況を整理する。考えるまでもなく、アナが髪を切られるのを嫌がってサフィニアから逃げ回っているのだろうが。
しかし時刻はすでに昼過ぎだ。朝から追いかけっこを続けていたのだと思うと、想像だけでうんざりとした。ふたりともどこにそれほどの体力があるのか。
まさか前髪を少し切るくらいでこれほどの大事になっているとは思いもしなかった。
追われるアナが再びシリウスを盾にするように、後ろへとぴゃっと隠れた。
「アナ。いい子だから、隠れていないで出てきなさい」
「やーあーっ! パパっ、たすっ、けてっ」
アナが必死に両手を伸ばしてぴょんぴょん跳ねて救いを求めて来るので、ひとまず抱き上げた。よほど嫌なのか、顔をシリウスの肩へとぐいぐい押しつけて、サフィニアに切られないように前髪をしっかりと隠している。
アナはものすごく嫌がっているものの、前髪の毛先が目に入りそうになっているのも事実なので、できれば切り揃えてもらった方がいい。
だが、やる気に満ちたサフィニアの様子には、不安しかない。
「アナ。お絵描き教室までに、身なりを整えておかないといけないのよ?」
確かにサフィニアの言うように、その伸びた前髪で第二王子の絵画教室に向かうのは問題である。最低限の身だしなみは整えておくべきだ。
それに絵を描くにあたって、その前髪は邪魔でしかない。
しかしアナはまるで聞く耳を持たず、断固拒否とばかりにイヤイヤと頑なに首を振っている。
両者一歩も譲らない。平行線。
仕方なくシリウスが仲裁に入ることにした。
「アナはどうして髪を切るのが嫌なんだ? ハサミが怖いのか?」
まずは嫌がる理由を探らなくては解決策は見出せない。
目元に刃物が来るのが怖いせいかと思ったが、アナは相変わらずシリウスの肩に顔を埋めたままで首を横に振る。
「それならなにが嫌なんだ? 悪いようにはしないから、言ってみなさい」
頭を撫でながら促すとアナは躊躇いながらも顔を上げて、サフィニアを非難するような口調で訴えてきた。
「ママ、へたっぴなのー! あな、やなのー!」
「へたっぴ……?」
はじめて聞く言葉だが、つまり、下手、と言う意味だろうか。
要約すると、下手だから切られたくない、と。
思い返してみると、前にアナの前髪がやたらと短くなっていたときがあったような気もする。前髪を両手でぐいぐい引っ張りながらぶすくれていたアナは、しばらく不機嫌そうだった。
なんだ、それが理由かと、肩の力が抜けた。要はサフィニア以外の器用な者がカットすればいいだけの話である。
そもそもサフィニアは大雑把なのだ。すぐに大きくなるからと大きめの靴を履かせていたように、すぐに伸びるからとアナの意見も聞かずにざっくり切ったに違いない。
「ぞろぞろ伸ばしている方がみっともないのよ?」
「パパぁー……」
半泣きのアナを慰めるように撫でた。サフィニアの言い分は正しいが、シリウスの気持ちはすでにアナへと傾いている。
生え際一センチのどんぐりの帽子のような前髪を受け入れるくらいなら、長い方がいい。シリウスとてそう思う。なんなら自分で切る。
アナはシリウスがサフィニアの肩を持つのではないかと不安になったのか、ケープ越しに襟元を掴み、切実そうな潤んだ瞳で見上げてきた。
「ねぇー、パパぁー……。あな、かわうそでしょ? かわうそでしょ……?」
「……カワウソではないな」
かわいそうではあるが。
言葉が間違っているせいで、どうにも真剣に同情しきれない残念な娘だ。
成長して誰彼構わず籠絡しそうな小狡い技を覚えてきている今、しばらくはカワウソに活躍してもらった方がいいかもしれない。このままでは本当に国を傾けそうだ。
「ママにカットされるのが嫌なら、別の者に頼もう。サフィニアもそれでいいな?」
下手と言われたサフィニアはあまり納得のいっていない表情をしていたが、シリウスの顔を立てて、散髪役を他人に譲ることに同意してくれた。
「アナが髪を切ってくれるのなら、それで構いません」
サフィニアからの言質は取った。だが当のアナがシリウスを信じたのに裏切られたというような顔をして暴れはじめた。
「ちょっきん、やなのー!」
サフィニアのせいで、アナが前髪カットに関して人間不信になっている。よほど前回の出来栄えがトラウマになっているらしい。誰が切っても酷い仕上がりになるとばかりに、うーうー唸っている。
「切らないとだめだ。だが、アナがいいと思う人に切ってもらうことは約束する」
「あな、やなのーっ! やーっ!」
「執事長でも嫌なのか?」
シリウスのそのひと言で、アナは腕を振り回すのをやめた。ゆっくり目を瞬いたアナは、そばに控えていた執事長の方へとちょっとだけ視線を移した。手応えはありそうだ。シリウスは畳みかけた。
「執事長がアナの期待を裏切ったことがあったか? ないだろう?」
「……」
「執事長はアナの期待以上のことに応えてきたはずだ。違うか?」
「…………」
長い長い沈黙の末、アナは小さくだが、こくんとうなずく。この状況においても唯一アナの信頼を得ている執事長だ。今のところアナの望む衣装や小道具を完璧に用意できるのは執事長しかいない。
「執事長ならきっと、アナの望む髪型にしてくれる」
「ほんと……?」
「どんな髪型もお手のものだ」
知らないが、きっとそうに違いない。執事長への絶対的信頼感がシリウスにそう言わせた。
「ほんと? じぇのべーぜでも?」
自信満々だったシリウスだが、予想外のモデルを出されて言葉に詰まる。
ジェノベーゼの前髪とは、どの部分なのか。どこからどこまでが前髪だ。鬣は前髪に入るのか、否か。わからない。
ポシェットの縁から顔を出しているジェノベーゼの頭部をじっと見据えるシリウスをよそに、いつの間にか隣にいた執事長がアナへと尋ねていた。
「ジェノベーゼとお揃いがよろしいのですか?」
「ううん」
すぐに否定したアナにほっとする。執事長ならジェノベーゼとお揃いに仕上げるくらいわけなさそうだが、さすがにそれはシリウスが止める。まだサフィニアのどんぐり帽子カットの方がましだ。いや、どっちもどっちか。
「それではアナ様は、どのような髪型をお望みですか?」
「…………らら」
やはりアナの目指す先は『ララとブラウニーの冒険』のララらしい。ジェノベーゼでなくて心底ほっとした。
ララの前髪ならちょうどいい長さになるだろう。
シリウスは安心して執事長へとアナを任せることにした。
アナはものの五分でララとお揃いの前髪を手に入れた。
信じられないとばかりに目を大きく見開いて、全身鏡に両手をぺとりとつけていたアナは、右を向いたり左を向いたり、くるっと回ったりしながら細部を確認し終えると、勝利のポーズを取った。
あれは『ララとブラウニーの冒険』の続編である、『ララとブラウニーの探検』で、ララとブラウニーが国を襲った巨大人喰いアナコンダとの戦いに勝利したときのポーズだ。
五歳の子供になんという試練を与えるのかと、思わず販売元に抗議しに行きそうになったシーンなのでよく覚えている。
そのまま背中から地面に倒れるところまで再現するだろうと予測してか、執事長がそつなくアナの背後にクッションを敷き詰めていた。
前髪カットを克服してララとお揃いの髪型になった喜びを全身で表現する娘を横目に、シリウスはソファでサフィニアと向き合っていた。
さすがに今回の件はひと言物申しておきたい。本当はすぐに城に戻らなくてはならないが、食事の時間を削ればどうにかなるだろう。
厨房が気を利かせて軽食を用意してくれたらしいので、それを移動中につまむことにして、早々に口火を切った。
「きみはあれこれ自分でやろうとし過ぎだ」
「……面目ありません。 わたしも少し……意地になっていたかもしれません」
サフィニアはどうにもアナのことは全部自分でやらねばと思っている節がある。アナが自分の手に負えない状態でも、なかなか人に任せようとはしないのだ。
アナに関しては基本的にサフィニアに従うよう通達してあるので、追いかけっこをするふたりを、使用人たちも止めることができずに内心ハラハラしていたらしい。
シリウスが一時帰宅したからよかったものの、城に泊まりだったらどうなっていたことか。
「もう少し周りに頼るなりしてほしい。今回のはさすがにアナがかわいそうだ」
「頼ると言っても……これまでは、ちょきんちょきんと、二回刃を入れただけで終わったのです。だから今回も大丈夫かと」
話を聞いて余計にアナがかわいそうに思えてきた。カワウソを差し引いてあまりあるくらいの同情が沸き起こる。
仕事を早く終わらせて、髪を切ったご褒美に苺のタルトでも買って帰ろう。なにも知らなかった贖罪の意味も込めて。
叱られたと感じたのか、肩を落とすサフィニアに、怒っているわけではないのだと前置きをして、シリウスは諭すように続けた。
「人にはそれぞれ、得手不得手がある。得意でないことを人に任せるのは、恥でもなんでもない」
「ですが、髪を切るのは不得意ではありません。エスターがいなくなってから、孤児院の子供たちはみんなわたしが切っていましたよ?」
まるで見当違いな慰めを受けたというような困惑のにじむその顔を前に、シリウスはそれ以上なにも言えなくなった。
彼女は一体、どれだけの憐れなどんぐりを無自覚なままに量産したのだろうか。
もしや孤児院の子供たちは、サフィニアが去ったことを内心喜んでいるのではないか。そんな気がしてきて無性に切ない。
どうやらサフィニアは自分が大雑把な自覚がないらしい。その上、王太子妃曰く、センスもイマイチなのだ。今から美的センスが育つ可能性はあまりにも低い。
サフィニアの場合、百パーセント善意なのがまた余計にややこしいのだ。悪気がないのはわかるが、悪気がなければなにをしてもいいというわけでもない。
ここは心を鬼にして、夫として、そして父親として、娘のためにも強気で意思を押し通すことに決めた。
「とにかく、アナの髪については、今後は執事長に一任する」
「ですがそれでは、執事長さんが大変なのでは……」
半日アナと追いかけっこをしていた彼女は、執事長がたった五分で髪を切り終わったのを見ていなかったのだろうか。
ふたりが走り回っている間、執事長がほかの仕事をしていたとは思えない。つかず離れずの距離から見守っていたに決まっている。どちらが時間の浪費なのか、お願いだからもう少し真剣に考えてほしい。
シリウスが口を開きかけたとき、ばふん、という音がして、意識がそれた。クッションの山に埋もれたアナが、きゃっきゃっと騒いでいる。ジェノベーゼを腕に抱き、見るからにご機嫌だ。
やはりララの真似をしてそこまでやったか、と思っていると、同じようにアナを見ていたサフィニアが、ようやく白旗を揚げて降参した。
「……わかりました。アナの髪については執事長さんにお任せします」
確かにあれだけ喜んでいる姿を見せつけられたら、嫌とは言えないだろう。アナを見つめる彼女は、どこから見ても母親の顔をしている。
自分の中で折り合いがついたのか、清々しい表情をしてこちらを向いたサフィニアだったが、一度ぱちりと瞬いてから、シリウスの顔をつぶさに眺めて、いいことを思いついたというように手のひらを打った。
なにか嫌な予感がする。むしろ、嫌な予感しかしない。
「シリウス様も前髪が邪魔ではありませんか? 髪を切る時間もないでしょうし、ここはわたしが――」
「いや、私はそろそろ仕事に戻らなくては!」
身の危険を感じたシリウスは慌ただしく立ち上がる。不自然さを取り繕えなかったが、今はそれどころではない。仕事と言われては引き留めることができないサフィニアは、至極残念そうな顔のまま、お気をつけてと送り出してくれた。仕事が忙しいおかげで命拾いした。
危うく憐れなどんぐり其の二にされるところだったシリウスが、その足で信頼できる理容師の元へと駆け込んだのは言うまでもない。