作品タイトル不明
47 番外編1 泥んこ遊び
ここのところ続いていた土砂降りの雨が止み、まっさらに晴れたある日の午後、シリウスは自宅で領地経営の方の仕事に励んでいた。
仕事に没頭すると時間を忘れがちだが、昼を過ぎても執務室から出て来ないシリウスに、執事長がお茶を用意しながらやんわりと働き過ぎなことを窘めてきた。
「少し休まれてはどうですか?」
「きりのいいところまでいったら休む」
シリウスとしてももちろん休憩は取りたいのだが、なかなかきりのいいところが見つからないのだから仕方ない。
そんなシリウスの性格をよく熟知している執事長は、攻める方向を変えてきた。
「久しぶりに外で遊べると、アナ様は大喜びで庭に走って行きましたよ。一緒に遊んで差し上げたらいかがですか?」
シリウスはそれまでするすると走らせていたペンを一旦止め、ゆっくりと書類から視線を上げると、真顔で言った。
「庭遊びで私にできることなど、なにもない」
もはやアナの体力についていけないシリウスに活躍の場などなく、どんな遊びであれ、足手纏いになるのが関の山だった。
悲観に暮れるシリウスにどう声をかけようかと困り顔になった執事長に、慰めは不要だと口を開きかけたときだ。庭からサフィニアの悲鳴が聞こえ、慌てて窓から外を覗いたが見える範囲に彼女はおらず、すでに臨戦態勢となっていた執事長と共に慌てて外へと飛び出した。
辺りを探し、庭の隅の方でへたり込んでいる妻の姿を目にすると、一気に血の気が引いた。
「どうした!? 怪我をしたのか!?」
急いで彼女の元へと駆けつけて、膝をつきその肩に触れたところで、ふと、すぐそばに広がっていたぬかるみの中にアナが紛れていることに気づいて絶句した。
全身泥だらけのアナは、ぬかるみにぺったりと尻をついて、嬉々として泥団子をこさえている。
なぜそうなったのか、髪や顔にも泥がべったりと張りついていた。
眩暈で倒れかけたシリウスを、執事長が背後からそっと支える。
「な、なぜこんなことに……」
これは確かに悲鳴を上げる惨状だ。サフィニアは両手で顔を覆い嘆いていた。
「だめだと言ったのです。しつこいくらいに、泥んこ遊びはいけません、と。それなのに……それなのに……」
だめだと言われ過ぎたことで、逆にやりたくなってしまったのだろうか。いかにもアナのしそうなことだ。
とりあえず、泥まみれのアナを至急なんとかしなくては。
「……執事長。昔ユーリの使っていた子供用プールがあっただろう?」
「心得ております」
子供用プールに水を張りに向かった執事長に準備は任せて、シリウスは目の前の見るに耐えない姿のアナに、ぬかるみから出るよう説得を試みる。
「アナ。こっちへ来なさい」
「パパー」
アナの小さな手のひらが、べちゃりとぬかるみを打ち、その衝撃で泥が周囲に飛び散った。
シリウスは息を呑んで固まった。泥に触れるのも、体に飛んでくるのも、本気で嫌だ。これでは迂闊に近寄れない。
「ア、アナ? 泥遊びではなく、水遊びはどうだ? 水遊びをしよう」
アナがちょっと興味を持ったように、泥をぱしゃぱしゃする手を止めた。
「みずあそび……」
「そ、そうだ。執事長が今、子供用プールを用意している」
まずはアナの丸洗いからだが、今日は天気もいいし、気温も高めなので、しばらく水遊びをさせてもいい。泥遊びよりましだ。
サフィニアもアナの説得に参戦する。
「水遊びをしよう? わたしが虹を作ってあげるから」
子供なら虹に食いつきそうなのに、アナはきょんとんとした顔をしている。
「もしかして、虹を見たことがないのではないか?」
「あっ、そういえばそうかもしれません」
虹などそうそう出るものでもないし、短時間で消えてしまう。アナが知らなくても仕方がない。
サフィニアは虹は諦め、別の方向から懐柔を図る。
「特別にジェノベーゼも一緒に水遊びをしてもいいから。ね?」
ジェノベーゼは生地や毛が傷むといけないので、普段からなるべく水に晒すことなく、濡れた布巾などで汚れを拭き取っている。なのでお風呂にだけはジェノベーゼを連れて行けないアナは、一緒に水遊びができることに喜んでぬかるみから立ち上がった。
ほっとしたのも束の間、シリウスはアナのそばにジェノベーゼの姿がないことに気づき、周囲を見渡した。
「そういえば、ジェノベーゼはどうした?」
アナはにこにこしながら、足元にある泥だんごの中で、一際大きな塊を指差した。
なにが言いたいのか理解できずに、その泥の塊へと目を凝らす。よくよく見ると、泥の中からこちらを切なげにじっと見つめているの翠色の目と目が合って、戦慄した。
(ジェ、ジェノベーゼ……!!)
泥の塊と化したジェノベーゼをアナは両手で抱えると、べちゃべちゃ音を立ててこちらへと歩いてきた。
こっちへ来るよう言ったのでこっちへ向かって来るのは当然なのだが、いざ泥まみれのアナが近寄って来ると腰が引けた。
幸いにもサフィニアがアナの両脇に手を入れて、執事長の準備するプールの方へと走って行ったので難を逃れたが、シリウスも遅ればせながら、石畳の通路に点々と滴った泥の後を追う。
シリウスが追いついたときには、アナはサフィニアによって泥だらけになった衣類を脱がされているところだった。
野外でそれはどうなのかとシリウスはちょっと戸惑ったが、肌着にまで泥水が染み込んでいるのを目にして、震えながら割り切った。隅々まで徹底的に洗い流すためには致し方ない。変な病気になる方が怖い。
それに今着ていた服はもう使い物にならないだろう。衛生的に考えても、そのまま捨てた方がいい。
水とお湯とでちょうどいい温度となったプールに肌着のままアナは入れられ、腕まくりをしたサフィニアに頭からゴシゴシ洗われている。アナはジェノベーゼを自分がされているのと同じように洗いはじめた。
アナにとっては丸洗いも水遊びの一種のようだ。
みるみるプールの水は汚れていき、使用人たちが急ピッチで水の入れ替えをしていく。
手持ち無沙汰なシリウスは、とりあえずみなを心の中で応援した。
汚れがすっかり落ちたところで、アナがタオルに包まれて水気を拭き取られ、新しい服を着させられていくのを横目に、プールにぷかぷか浮かんでいたジェノベーゼを救出して、こちらもタオルで丁寧に水分を拭った。
泥に汚れたせいで生地がだめになっていないか心配だったが、水を含んだせいでやや肥大化している以外に特に傷みもなく、洗ったことで前より綺麗になっていたのでほっとした。
背中の翼もどうなっているのか外れることもなく、水を弾いてその輝きを増している。
なんとなく胴をぎゅっと絞るのは心情的に難しいので、芝の上に広げた敷物の上にそっと横たえて、天日干ししておくことにした。
踵を返すと背後から、ぶるるっ、と小さな音がして、振り返る。ジェノベーゼはつぶらな瞳を明後日の方へと向けていたが、辺りに飛び散った水滴の跡は隠せていない。
「……」
暗黙の了解で深追いしないことにして、シリウスはサフィニアたちの元へと向かった。
「アナは大丈夫そうか?」
「今着替え終わりまし――あっ!」
シリウスが話しかけた一瞬の隙をついて、アナがサフィニアの手から逃れ、とことことこっ、と走ってプールに飛び込んだ。
「みずあそびー!」
「せっかく拭いたのに……」
水遊びで誘い出したので、少し遊ばせておかないと満足しないだろう。汚れた水もすっかりと入れ替えれて、澄んだ空の色が映る綺麗な水になっている。
肩を落とすサフィニアを労って、シリウスはしゃがんでプールの枠の外からアナを見張ることにした。
さすがに溺れる深さではないが、なにが起こるかわからないのが子供の遊びだ。目は光らせておかなければ。
「パパー」
アナが手で掬った水をこちらへとかけてきた。とっさに目だけは瞑ったが、顔にそれなりの量の水がかかった。素早く避けられないこの体が恨めしい。
水気を払っていると、アナがこちらを見てなにかを待っていることに気がついた。なにを求めているのかわからず戸惑っていると、隣に来たサフィニアが両手で水を掬い、それをかけてやると、アナはきゃっきゃと喜んだ。
なぜ濡れるのがそれほど嬉しいのか。子供の感性がまったく理解できない。
「じぇのべーぜはー?」
「ジェノベーゼは……」
のんびりと日光浴をしていたジェノベーゼがサフィニアに回収され、再びプールへと戻された。翼を広げてぷかぷかバランスよく浮きながら、アナの元へと泳いでいく。水中で水かきしているように見えるのは気のせいだ。
「じぇのべーぜ!」
アナがジェノベーゼと戯れるのを眺めながら、シリウスはなんとなく、隣のサフィニアに手で掬った水をちょっとかけてみた。
「ひゃっ」
目を丸くするサフィニアに、すまないと謝ろうとしたが、その前に水をかけられた。やはり素早く避けられないこの体が恨めしい。
濡れた前髪を掻き上げると、サフィニアはこちらを凝視しながら、思わずといった様子でつぶやいた。
「水も滴るいい男ですね……」
「ナスラ神よりもか?」
「それは、比べるものではありませんよ。神は人ではなく神ですから」
相変わらず妻がつれない。やはり筋肉なのか。シャツのボタンがとまらないような胸筋がなければいけないのか。ますます初夜が遠ざかる。
「シリウス様は、ナスラ様のようになりたいのですか?」
「神になりたいわけではなく、きみの一番になりたいだけだ」
サフィニアはちょっとよくわからないという困惑顔をしている。この繊細な男心がなぜわからないのか。
「男性の中では、シリウス様が一番ですよ……?」
悪い気はしないが、神への対抗心は未だ消えることなく燻っている。
「それにシリウス様がナスラ様のようなお体でしたら、今よりも威圧感が増してしまい、ちょっと、怖いかもしれません」
指摘されて、確かにと思ってしまった。ただでさえ子供が泣くような冷たい顔立ちをしているのに、筋肉で威圧感まで与えたらアナですら泣くかもしれない。それは困る。
「わたしは今のシリウス様のお姿が一番安心できるのですが、健康のために体を鍛えること自体はいいことだと思います」
「いや、ありのままを受け入れることにする」
最近は子供だけでなく大人が泣くこともあるのだ。筋肉で威圧したら、泣くだけでは飽き足らず、泡をふいて倒れるのではないだろうか。
大臣たちは年配者が多い。煩わしいことも多いが、間違って殺してしまってはさすがに後味が悪い。
「筋肉がなくても幻滅しないか?」
「幻滅しませんし、わたしからしたらシリウス様は足が長くて羨ましいくらいです」
サフィニアに物欲しげに足を見られる。彼女はいつまで足の長さを引きずるのだろう。
「幻滅されないのであれば、少し……先に進んでもいいだろうか?」
サフィニアは秘め事の匂いを感じ取ったのか、頰を染めながらそわそわとスカートをいじりはじめた。
「よ、よいのでは、ないでしょうか……?」
「では今夜、アナが寝てから……」
「ばあ!」
突然アナが水の中からざばりと現れて、ふたり揃って尻餅をついた。本当に、心臓が止まるかと思った。
シリウスとサフィニアを驚かすことに成功したアナは追撃の手を止めることなく、楽しそうに水を掬ってこちらへとパシャパシャとかけてきた。
水遊びの洗礼を受けたシリウスは、もはや全身びしょ濡れだ。濡れたシャツをぎゅっと絞っていると、執事長がそっとタオルを差し出して来た。ありがたく受け取って頭から拭う。
サフィニアも髪や顔をタオルで拭いているが、シリウスの半分も濡れていない。もしや自分は、足が長いせいで素早く動けないのではないか。そう言ったらサフィニアが変な顔をして、水気を拭き取ったばかりの顔面に水をかけられた。なぜだ。
サフィニアは蛇口まで歩いて行くと、振り返ってアナを呼んだ。
「アナ、これが虹よ」
蛇口を捻ってホースの口の部分を指で押さえて霧状の水飛沫を起こす。光の反射で小さな虹ができると、アナが驚きもあらわにプールから飛び出て駆け寄った。
どうにか虹を取ろうと必死に飛び跳ねるアナを、サフィニアがくすくすと笑って眺めている。
「虹は取れないのよ?」
「やー! あな、にじしゃん、いるのー!」
どうしても虹がほしいらしいアナは、シリウスを引っ張り虹を指差して懇願する。
「パパー、とってー」
「あれは誰が相手でも敵わない代物だ。諦めなさい」
「やー! とるのー!」
アナが地団駄を踏む。この頑固な娘は、いくら無理だと言っても納得しないだろう。
これではもう、午後は仕事どころではなさそうだ。
しかし、アナが楽しそうなのでまあいいかと、ずぶ濡れのまま、シリウスは虹を入手する算段を練るために立ち上がった。