軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

34 ダンサーイザドラ3

「ああ……」

『はらのせんをけしたい』

産後の女性のおなかに残るひきつれた跡

妊婦の腹は大きく膨らむ。膨らむ速さに追いつけなかった皮は中で切れ、産後でも消えずにこのような跡を残すことがある。

イザドラは若いがスリムだから、おなかの膨らみに対して皮の量が足りなかったのだろう。

そうならないようオリーブの油などを塗ってケアすることもあるが、きっとイザドラにはそういうことを教えてくれる人も、周りにいなかったのだ。

「こんな腹じゃもう舞台には上げられないって」

婆が言うんだよ、とイザドラは消え入るような声で続けた。

「アルの……あの子の父親はろくでなしで、あたしが孕んだのを知ってうちから金を盗んでどっかに行った。アルを育てられるのはあたしだけなのに、あたしは踊ることしかできないのに」

わなわなとイザドラの両の腕が震える。

裸の肩にソフィは服をかけた。その背をゆっくりとさする。

「あたし、あたし」

ブルブルと震えている。

イザドラの頬を涙が濡らす。

「こないだあの子をぶったんだ。泣き……泣き声が、あたし、辛くって」

責められているようだった

まともな仕事も、金もない女がなぜ産んだ

ろくに育てられるわけもないくせにどうして産んだのだと、責められているような気がした。

「赤ちゃんなのに、そんなわけないのに、あたし」

カッと頭に血が上り

――あたしに仕事がないのはあんたのせいじゃないか!

叫びながら

その小さな頬を張ったのだと

罪を犯した震える右手をじっと見る。

「あたし、いいお母さんになりたかったのに」

子を打った手を、ぶるぶる震えるもう一つの手で、罰するようにイザドラは強く握りしめた。

男なんかいなくてもしっかり育てよう

あたしは絶対にあんな母親になんてならない。犬のようになんて育てない。

アリアがしてくれたように優しく体を洗ってやって、美味しいご飯をたくさん食べさせてあげよう。

そう思っていたのに

「あたしは……お母さんとおんなじだ」

うああああああ、とイザドラは泣き崩れた。

うんうん、とソフィは何度も何度も頷きながら、イザドラとともに泣きながら、すべすべとした細い背中を撫でる。

少々口が悪くても、ミミズのような字しかかけなくても

この子は頑張ってきた

小さいころからずっと、それこそ人の3倍の苦労をして必死で生きてきたのだ。

優しい夫と広い家のある女性だって、産後は心の調子を崩すものだ。

夫になるべき男に逃げられ、金を奪われ、生きがいであった踊りの場も失った

にこにこ優しく笑っていろというほうが無理な話だ。

一人で子を育てなければならないその重さを、ソフィは知っている。

先ほど見たイザドラの子は、元気なように見えた。泣く声は大きかったし、頬はふっくらと丸かった。汚れている様子もなく、髪の毛はさらさらだった。

打ったのはおそらくそれが最初で最後なのだろう。そうであってほしい。

本当に追い詰められる前に、彼女がソフィに手紙を書いてくれて、本当に良かった。

「な……なおるかなぁ、これ」

ようやく涙が治まり、ぐしぐしと鼻を赤くして問うイザドラに、ソフィは微笑む

「やってみるわ」

後ろから包むように

ソフィはイザドラの腹に手をかざす

『いたいのいたいのとんでいけ』

イザドラが、また舞台に立てるように

『とおくのおやまにとんでいけ』

その生きがいを失わずに子と生きていけるように

どうか

光の消えたそこに

イザドラのツルツルの白いおなかがあった

「……あぁ……」

イザドラが、その感触を確かめるように手のひらを当て、またはらりと涙を落とした。

「神様……」

彼女の神様はきっと踊りの神様だろう、とソフィは思った。

泣き崩れるイザドラに、どう服を着るようにお願いしようかと考えていた。

「それでねイザドラさん」

「あい?」

わっしわっしとケーキを口に運んでいるイザドラに、ピンとソフィは指を立てた。

モグモグごっくんと飲み込んで、きょとんとした顔でイザドラはそれを見ている。

「わたくし、あなたがこのままでいいとは思っていなくってよ」

「なんで?」

あんたのちょっともらっていい? とソフィの皿を狙ったイザドラを鼻息で制し、りんりんとベルを鳴らしおかわりを持ってきてもらうようクレアに声をかけた。

「あなた、あいさつはできて?」

「……」

この部屋に入ったとき、イザドラは名乗りも挨拶もしていない。

「約束の時間は守れて?」

「……」

今日も自分で指定した時間に遅れて訪れた。

いかに踊りができようが

いかに苦労が多い環境で頑張って生きていようが

最低限の礼節と、決まりを守れない人間を人は助けない。

寄ってくるのは逃げた男のような、同じく礼節と決まりを守らない人間だけだ。

「あいさつは、相手がそこにいることを認め、自らがここにいることを示し、友好的な関係になりたいと思っていることを示す符号です」

「もう少し簡単に言ってくれないかなあ」

「私はここにいます。あなたがそこにいるとわかっています。私はあなたと仲良くしたいと思っていますという合図です」

「ふうん」

フォークをくわえたまま気のない返事をするイザドラを、ソフィはキッと睨みつけた。

「イザドラさん」

「はいっ」

「あなたはこれから、人に助けてもらわなくては生きていけませんわ」

「……なんで?」

あたし今まで全部自分でやったよ、とイザドラはぽかんとしている。

「アル君を守らなくてはいけないからですわ。あなたは人の手を借りなくてはいけないのです。そして借りた分は、何らかの形で返さなくてはなりません」

どうしてだよめんどくさい、あたしの周りなんて嫌なばばあしかいないのにさとイザドラは吐き捨て、じとりとソフィを見た。

「あんたはお金持ちのお嬢様だから、周りにいいやつしかいないんだろうけど、あたしの住んでるとこのやつらなんか本当にいやなばばあばっかりだよ。ねちねちねちねち、細かいことをちまちまちまちま、あんなやつらと仲良くなんかできないよ。ダンサーってだけで色眼鏡で見やがるんだ」

そこまで言って

あれ、とイザドラが首をひねった。

「どうしたの?」

「そういや、アルが産まれる前は夜中に水を浴びるなとか、音がうるさいとかよく言われたのに」

でかいアルの夜泣きの声に、文句を言われたことがない、と

イザドラはぽかんとした顔で呟いた。

ホッとソフィは息を吐いた。

良かった

大丈夫。まだ光はあるのだ。

「アル君がこれからおっぱいを飲まなくなったら、柔らかい離乳食を作らなくてはなりませんわ。赤ちゃんから徐々に大人の食べるものに近づけていく、どの月齢ならどんなものを食べられるのか、知っている人が身近にいなくてはわかりません。それに産まれてから6月もすれば、風邪や皮膚炎や何やらたくさんの病気にかかりますのよ。医師に見せなければならないような重篤なものなのか、お水を取らせて寝かせておけばよいようなよくある病なのか、経験がある人がいなければわかりませんわ。何より話せる大人が近くにいることは、絶対にあなたの気持ちを楽にさせますわ」

「ちょっと早口すぎて何言ってんだかわかんなかったけど、……すっごい詳しいね」

産んだの? と聞かれた

ほほほ、とソフィは笑ってごまかした。

「元気な子ならもう少し大きくなれば自分で部屋も飛び出します。あなたが少し目を離したときに、飛び出したアル君に『どうしたの』と声をかけてくれる大人の数は、多ければ多いほうがよいのよ」

「……」

「人に頼るのは嫌だというのは、あなたがこれまで自分の足で頑張って来たからだと思うわ。立派だと思うわ。でもこれからはそれではダメなの。周りと話したり、頼ったり頼られたりする面倒な関係を、アル君のためにも作らなくてはならないの。アル君の代わりに『すみません』と謝らなくてはならないの。『すみません』は親が子供に言わせる言葉じゃないわ。子供のために親が言う言葉なの」

「……やったことないから、わかんないんだよ」

イザドラがうなだれた。先ほどまでのどうでもよさげな態度ではなく、本当に困り果てたという様子だった。

ソフィはそんなイザドラを見て少し悩み、そうだわ、と手を打った。

「まわりのおばさま方を、皆歳を重ねたアリアさんだと思えばいいわ」

「あんなおかめばばあたちをアリアと一緒にしないでよ!」

「思うだけでいいのよ。歳をとったアリアさんが、ちょっと嫌なことが重なってちょっと偏屈になっちゃっているだけとお思いなさい。ひとりひとりが、あなたを洗ってスープを出してくれたアリアさんのなれの果てと思って接すればよいのです」

「なれの果て……」

ひどいこと言うなあとイザドラが半目になった。