作品タイトル不明
12 黒い影に潜むもの
多くの人が行き交う街道。
美しい街並みに、洗練された造りの王宮。
王国中央ホテルの上階の窓辺から、エタノール王国の王都を眺めながら、彼はグラスに入った水を揺らしながら、眉根を顰める。
豪奢なマント、煌びやかな衣装に身を包み、指にはいくつもの指輪が光っている。
しかし、それは彼の心を慰めるには足りないものなのだ。
「皆、調子に乗っておる」
自らの焦茶色の長髪がグラスに映り、彼はそのグラスを憎き敵であるかのように床に投げ落とす。
砕け散ったそれに見向きもせず、窓辺のソファに座り、紺色の瞳を細めたところで、声がかかった。
「父上」
声をかけたのは、彼によく似た顔立ちの男だ。歳は二十代後半、焦茶色の髪に淡い水色の瞳が映える好青年である。その華のある服装は、彼がそれなりの身分の持ち主であることを示している。
息子の声に振り向きもしない彼に、青年が苦笑すると、彼はようやく青年に向かって狗血を開いた。
「なんだ、スタンリー。また小言を言いにきたのか」
「いえ。噂のリキュール伯爵家が王都入りしたそうなので、報告に参りました」
「ふん。聖女の血を引く二人か。くだらんな」
「他国は、そうは考えていないようですね」
「実に瑣末なことだ。聖女の血が何をもたらしたというのだ」
「世界に和をもたらしたとの言い伝えがありましょう」
「何が和だ。戦に使われ、残るは二人。その血を保つことすらままならないではないか」
「……あなたの娘が嫁いだ国の、大切な資源です」
言葉を選ぶようにしてそう告げた青年に、彼は目を細めたあと、思わずといった様子で失笑した。
「資源か。言うようになったではないか。確かに、そうだ」
喉の奥で暗く笑う彼に、青年は表情を動かさない。
「この国が私のものになれば、いずれそ奴らも、私のものとなろう」
「はい」
「…… だ(・) か(・) ら(・) 、国に帰るまで事を起こさぬように、と言いたいか」
ようやく振り向いた彼に、青年は眉一つ動かさず、しかしその手を硬く握りしめた。
青年を見ているのは、彼だけではない。
彼の背後、その影に潜む黒い生き物は、闇を宿した瞳で青年のことを見つめている。
「お前が画策していることはわかっておる」
「父上」
「せいぜい足掻くがよい」
彼が身につけている豪奢な首飾り、その中心に輝く漆黒の秘石がきらめくと、陰に潜む生き物が目を細め、青年の心の臓を人ならざるその手で握りしめる。
「……父上」
「どこまでお前が抗うのか、見ものだな」
「私は、あなたの敵ではないはずです」
ピクリと眉尻を動かした彼に、青年は告げる。
「私は、あなたの息子だ。私の功績は、あなたの功績。功を競う敵であった、あなたの兄君達とは、違います」
永遠にも思われるその時間。
じっとりと汗を滲ませながらも、青年は静寂の中、苦痛を表に表すことなくただひたすらに待つ。
そんな青年を見た彼は、ふと、つまらなさそうな顔をして、首飾りの輝きを収めた。
心の臓から手が離れ、思わず膝をついた青年に、彼は暗い笑みを浮かべる。
「お前は本当に、うまく生きるものだ」
「……そんなことは」
「それは私にはないものだ。私は愚直に、前を向くことしかできぬ。しかしそれでも、私が頂に立つ。全ては、私にひれ伏すだろう。こんな私にな」
これ以上の会話は不要と悟った青年は、会釈をすると、部屋を退室する。
扉の外で青年の帰りを待っていた官僚達は、彼の帰還にほっと表情を和らげたものの、口は開かない。ホテルの別のフロアにある青年の部屋まで戻り、ようやく彼らは息を吐いた。
「スタンリー殿下。よくぞお戻りに」
「今度こそダメかと思いました」
「父上がうつり気なのは、いつものことだろう」
「ですが、最近の陛下は、その……」
「……いや、わかっている。父上は既に、心を決めておられる。私達と同様にな」
青年の言葉に、配下の者達は背筋を伸ばす。
青年――王太子スタンリー=スルシャールは、実のところ、父である国王スルト=スルシャールの弑虐を企んでいるのだ。
スタンリーは本来、そのようなことを企む男ではない。
和を尊び、空気を読み、今ある恵みを喜ぶことを本性とする王太子スタンリー。
しかし、その彼をして、父王たるスルト=スルシャールを受け入れることはできないと判断している。
父王が、ただの愚王であったならば、まだ他にやりようがあった。
しかし、その背後には、あの悪魔が居る。
闇に染まった瞳でスタンリーをただ見ている、もはや綿毛とは呼べない何か。
「あれは、あまりにも危険だ。今のうちになんとかしなければ」
「スルシャール王国での準備は着実に進んでおります」
「帰国しさえすれば、あとはことを成すだけかと」
「……我らの力で、なんとかなるでしょうか」
思わず沈黙する配下達に、スタンリーも一瞬、引きずられそうになりつつも、気を取り直して空元気で笑った。
「なるようになるさ。これはやらねばならないことだ。臆して逃げることは叶わないのだから、前を向くのがいいだろう」
「……聖女の力を借りることはできないのですか」
銀髪に紫色の瞳を持つ聖女リリアナ。
スルシャールの王族に伝わる黒い秘石と、対になる伝説を持つ存在。
その血を引く者に頼ることができないのか。
配下のすがるような目に、聖女の近況を知ったばかりのスタンリーは、自嘲するように笑った。
「おそらく難しいだろう」
「ですが、殿下」
「現在存在を確認されている聖女の血を引く者は、残り二人だそうだ。三十二歳のリキュール伯爵と六歳の娘。伯爵のほうはエタノール王国が再婚を詰め寄りすぎて、女性恐怖症になるまで追いこんでしまったとか」
絶句する配下達に、スタンリーは苦笑する。
精神的に追い詰められた伯爵とその娘。
伯爵のほうはおそらくスタンリー達が頼ることのできる状況ではなく、なによりたった二人に減ってしまったその血筋を守るため、今のスルシャール王国に手を差し伸べるといった危うい橋を渡ることはないだろう。
ちなみに、スルシャール王国においては、聖女の力は男性よりも女性のほうが強く発揮するものだと伝わっているが、六歳の幼女に大人として頼れることがあるとはとても思い難い。
「まあ、今は新妻が二人を支えているからだいぶ落ち着いたらしい」
「新妻!? 女性恐怖症の伯爵が、再婚したのですか」
「すごいな……再婚相手は、とんでもなく癒し系の女性なのだろうか……」
「海のように広い心の持ち主であることは間違いないだろうが、再婚避けの偽装結婚の可能性が高いな」
「ああ、なるほど」
「そのほうが真実味がありますね」
「とにかく、聖女の家を頼るのは難しい状況だ。彼らは今、自分達のことで手一杯だろう」
暗い面持ちの配下達に、スタンリーは苦笑する。
「ただ、このエタノール王国は聖女生誕の地だ。何か手がかりが残っているかもしれない」
「……そうですね」
「準備はほぼ済んだ。あとはやり切るだけだ。我らの肩には、我が国のすべての民の行く末がかかっている」
力強く頷く配下に、スタンリーもまた、力強い笑みを返した。
彼らの覚悟を目の当たりにしながら、スタンリーは思う。
全ての始まりは、スタンリーが十代だったあの日、見てしまった出来ごとだった。
それは、父王があの首飾りの中心に輝く秘石を手にした瞬間のこと。
明るい髪の色をした、優秀な兄達に嫉妬する父スルト。
彼が行きずりの黒髪の踊り子に産ませた、スタンリーの妹、黒髪の王女スザンヌ。
スルシャール王国が宝物庫の中で封印していた、悪魔のような存在。
そして、脳裏に浮かぶのは、美しくも蔑まれ続けた妹が国を発つその日のことだ。
『スタンリー兄さまは、何故、私に優しいの?』
スタンリーを見ていた、諦観と、その奥に少しの希望を載せた深い紺色の瞳に、彼はただ、「逃げろ」とだけ伝えた。
無力な彼には、それだけしか言えることがなかったのだ。
(本当に、手に余る……)
しかし、味方も居るのだ。
エタノール王国の王弟エドワード。
彼は話のわかる男だ。
スタンリーが彼に託したものを、彼は間違うことなく真っすぐに受け止めてくれていることだろう。
(その兄のエタノール国王や王太子は、心配なところが多いが)
どこにでも賢者が居て、愚者が居るということなのだろう。
果たして、スタンリーは賢者と愚者、どちらに振り分けられるだろうか。
(まあ、間違いなく愚者だろうな。賢者ならきっと、数年前に尻尾を巻いて逃げ出しているはずだ……)
苦笑しながら、スタンリーは先ほど見たもののことを思い返す。
父王が肌身離さず持っている黒い秘石。
祖先が、黒髪の呪術師クロムから奪ったもの。
クロムから奪ったものはそれだけではなく、その爪痕は今なお黒髪の者達を苦しめている。
その全ての咎を、きっとスタンリーは受けることになるだろう。
覚悟は既にできている。
あとはただ、未来に向けて、歩を進めるだけだ。