軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第1話 お母さま、いつ笑うの?

「お母さま、いつ笑うの?」

朝食の白い皿の上で、苺のジャムが宝石のように光っていた。

銀のスプーンを持つ手が止まる。向かいの椅子に座ったレオが、焼きたてのパンをちぎりながら、こちらを真っ直ぐに見ていた。

五歳。亜麻色の髪。青灰色の瞳は父親譲りで──その事実に、もう何も感じなくなって久しい。

「笑っていますよ」

口角を上げてみせた。そうしているつもりだった。

「ちがうの」

レオはパンの耳をちぎる手を止めて、首を傾げた。

「お母さまが最後に笑ったの、覚えてない」

……五歳の子供は、嘘がつけない。

そして五歳の子供は、大人が思うよりずっと正確に、目の前の人間を見ている。

私は湯気の立つ紅茶のカップに視線を落とした。映り込んだ自分の顔がぼんやり揺れている。笑っている顔には、見えなかった。

「レオ、パンを食べなさい。冷めますよ」

「はぁい」

レオが素直にパンを頬張る。苺のジャムが口の端についた。私は布巾でそっと拭いてやり、それ以上、何も言わなかった。

執務室の机には、三日前に届いた商人からの書簡が六通、税務の報告書が二冊、そして領民からの陳情書が四枚。

いつもの朝だった。

帳簿を開く。数字を追う。ペンを取り、計算の続きを記す──はずだった。

インク壺にペンを浸したまま、手が動かない。

(お母さまが最後に笑ったの、覚えてない)

あの声が、耳の奥に残っている。

……いつから笑わなくなったのだろう。

思い返そうとして、指が止まった。思い返す起点が見つからない。笑わなくなった日はない。少しずつ、少しずつ、笑い方を忘れていっただけだ。

結婚した年。十八歳。あの頃のディートリヒは──。

(やめよう)

考えても仕方のないことだった。

新婚の秋に初めて二人で見た北の山脈の雪化粧。あの時は、確かに笑えていた。領地の春祭りで、領民の子供たちに花冠をもらった年も。ディートリヒが隣にいて、「似合っている」と短く言ってくれた。

あれは何年前だったか。

やがて会話は減り、ディートリヒが王都に行く回数が増え、帰ってくるたびに「大切な客人」を連れていた。毎回同じ女性だと気づいたのは、三年前の秋だった。

気づいた夜、私は何をしていたか。

帳簿をつけていた。

翌朝も帳簿をつけた。税制の見直し案を書き、商人との交渉文書を整えた。怒鳴りもしなければ、泣きもしなかった。ただ笑わなくなった。それだけのことだ。

「奥様、お顔の色が──」

侍女のマルタが盆を手に入室していた。

「何でもありません」

立ち上がりかけたマルタを手で制し、帳簿に目を戻す。マルタは何か言いたそうに口を開きかけたが、「……お茶をお持ちしました」とだけ言って盆を机の端に置いた。

九年間、この人はずっとそうやって、言いたい言葉を飲み込んでくれていた。

マルタが退室した後、紅茶に手を伸ばす。その時、帳簿の下から一枚の紙が覗いた。

ノイマン商会への発注書の控え。秋口に出した麦の保存樽の手配だ。

先方の数字はいつも正確で、納期の遅れもない。商人としてまっとうな相手だった。

それだけのことだ。発注書を帳簿の間に戻し、冷めかけた紅茶を一口飲む。

──何も変わらない一日が、また始まろうとしていた。

夜。

レオの寝息が規則正しく聞こえる。小さな胸が上下するのを確かめてから、毛布の端をそっと直した。

(いつ笑うの)

暗い廊下を歩きながら、あの声がまた耳の底で響く。

執務室に戻った。蝋燭に火を灯す。

帳簿が机の上にある。今日一日、結局まともに手をつけられなかった帳簿。開けば数字が並んでいる。九年分の数字。私が一人で書き続けた、この領地の全て。

帳簿を閉じた。

閉じて、その上に両手を置いた。革の表紙が掌に冷たい。

九年。

(九年間、私はここで何をしていたのだろう)

答えは簡単だった。帳簿をつけていた。交易路を開き、税制を整え、領民の陳情に応え、商人と交渉し──夫が連れてくる「客人」のために客室を整えさせ、何一つ文句を言わなかった。

それが妻の務めだと思っていた。

思っていた。思い込んでいた。

──思い込もうとしていた、が正しい。

帳簿の隣に、白紙の紙を一枚引いた。

ペンを取る。インクをつける。

離縁届の条項を、一つ目から書き始めた。

第一条。婚姻の解消について。理由──三年以上の実質的別居。ヴァイセンベルク辺境伯ディートリヒの年間在領日数は過去三年にわたり百日に満たない。使用人三名以上の証言をもって立証可能。

第二条。嫁入り支度金の返還。

第三条。婚姻中に妻が個人の能力で築いた資産──帳簿記録、個人名義の取引契約──は妻の財産として持ち帰る。

書く手は震えなかった。九年間、数字を書き続けた手だ。条項を書くのも、同じことだった。

ペンが止まったのは、最後の条項だった。

しばらく、白紙の余白を見つめた。蝋燭の灯りが揺れて、紙の上に影が走る。

レオの寝顔が浮かんだ。あの小さな手。苺のジャムがついた口元。真っ直ぐにこちらを見る青灰色の瞳。

──いつ笑うの。

ペンを下ろした。

「長男レオ・フォン・ヴァイセンベルクの養育権は、母クラーラに帰属するものとする」

最後の一文字まで書き終えて、ペンを置いた。

インクが乾くのを待つ間、窓の外を見た。北の空に星が一つ、冷たく光っている。

笑える場所を。

この子が笑っていられる場所を、探さなければ。

蝋燭の火が揺れた。離縁届の上で、インクがゆっくりと乾いていく。