作品タイトル不明
第3話「鎖国中に海外出張を命じられました」②
十日目。横浜着。
横浜。開港場。日本で最も「外」に近い街。
最初に来たのは匂いだった。潮の香りに混じって、異質な匂い。香辛料。コーヒー。革。石鹸。名前を知らない匂いが何層にも重なってる。空気そのものが「ここは日本じゃない」と主張してる。幕末の横浜って、今で言う「成田空港の出国ゲート前」みたいな場所なんだろうな。国境の匂いがする。
街の景色。日本家屋の向こうに洋風の建物が見える。外国人居留地だ。白い壁。赤い煉瓦。ガラスの窓。旗が立ってる。英国旗、フランス国旗、アメリカ国旗。和風の街並みに突然現れる欧州建築。カオス。時代の転換点に立ってる感じがする。
人の流れ。和装の日本人に混じって、洋装の外国人が歩いてる。背が高い。鼻が高い。髪の色が金、茶、赤。この時代の日本人にとっては衝撃的な光景のはずだ。一緒に歩いてる井上も、あからさまに緊張してる。目が泳いでる。
でも、俺はそうでもない。前世で散々外国人と仕事してきたからな。電話会議でインド人の英語と格闘し、出張でシンガポールのオフィスに行き、アメリカ本社の重役にプレゼンして玉砕した。あの経験があるから、肌の色が違う人間を見たくらいじゃ驚かない。
ただ、「今からこの人たちの国に行くのか」と思うと、胃がきゅっとなる。それは別の話だ。
宿に入る。安宿。畳の部屋。ここで他の三人と合流する手はず。
「伊藤。三人はいつ着く」
「明日の午前中には」
「よし。それまでに商会への連絡を済ませておけるか」
「今日中に居留地に行って、接触してみます」
「一人で大丈夫か」
「大丈夫です。英語で話すのは俺の仕事ですから」
井上が頷く。それからポン、と俺の肩を叩く。痛い。力が強い。
「気をつけろよ。何かあったら——」
「逃げます」
一瞬の間。井上が吹き出す。
「……まあ、そうだな。それが正しい。逃げ足も大事な才能じゃ」
「ありがとうございます」
逃げ足も才能。この時代でそう言ってくれる人は貴重だ。武士は普通、「逃げる」を恥とするから。でも俺の辞書に「恥」の文字はない。あるのは「生存」だけだ。
◇ ◇ ◇
午後。横浜外国人居留地へ。
町人姿のまま。でも居留地に近づくにつれ、日本人商人が増えてくる。外国人相手に商売してる連中だ。俺が紛れても不自然じゃない。
ジャーディン・マセソン商会の横浜事務所。石造りの二階建て。看板に「JARDINE, MATHESON & CO.」。立派な建物だ。前世で言う、外資系企業の日本支社。そんな感じ。
門の前で深呼吸。
さあ、ここからが本番だ。英語で交渉する。十九世紀のイギリス人を相手に、二十一世紀のジャパニーズビジネス英語が通じるか。TOEIC 820点の真価が問われる。……あ、でもこの時代、TOEICなんてないか。というか俺の英語、十九世紀の人に通じるのか? 発音とか文法とか、百五十年で変わってるよな? いや、考えても仕方ない。やるしかない。
門を入る。受付。白人の男。三十代。赤ら顔。事務員だろう。態度はまあ、普通だ。少なくとも「日本人お断り」って顔じゃない。
さて、ここで最初の一言が肝心だ。「エクスキューズ ミー…」で始めるか「グッド アフタヌーン…」で始めるか。いや、ここは丁寧に、かつ「俺は英語が話せる」という事実を最初に見せつけるパターンで行く。
「Excuse me. I have an appointment with your office regarding a passage to England.」
(失礼。英国への渡航の件で、こちらに予約を入れている者ですが)
男が顔を上げる。目が丸くなる。そうだろう。和装の若い日本人が、流暢とは言えないが明確な英語で話しかけてきた。この時代の日本人で英語を話せる人間は、たぶん指で数えるくらいしかいない。俺が話す英語が多少下手でも、「日本人が英語を話している」という事実だけで相手に衝撃を与えられる。希少性ってのは得だな。
『……英語が話せるのか?』
『ええ。私は長州藩の代表として参りました。我々の手配について、そちらへ連絡が入っているはずですが』
受付の男が奥に引っ込む。しばらくして別の男が出てくる。年配。四十代くらい。スーツ。態度が慇懃。たぶんこっちが交渉担当だ。
『どうぞ、こちらへ。私はハリソンです。ロンドンの方から例の……手配について書状を受け取っています』
「手配」の前に一呼吸置いたな。この人、俺たちのことを「密航者」として認識してる。でも表向きは「留学生」で通す。そういうビジネスライクな距離感。嫌いじゃない。
通された部屋。椅子とテーブル。紅茶が出てくる。
椅子! 椅子に座るの前世以来だ! ちょっと感動する。畳の正座で痛めた膝が喜んでる。紅茶も久しぶり。日本茶もうまいけど、紅茶のこの香りはまた別物だ。文明って素晴らしい。
交渉開始。
ハリソンが書類を見ながら説明する。乗船する船はチェルシー号。三本マストの帆船。出港は三日後の夜。船長はウィリアム・ボイル。乗船料は一人あたりいくら(既に支払い済み)。航路はシンガポール経由でロンドンへ。
『乗客は計五名。全員若い男で、留学生です』
『留学生?』
ハリソンが聞き返す。声に疑いの色がある。当然だ。鎖国中の国から「留学生」が出てくるのは不自然すぎる。この人、たぶん俺たちが「密航者」だと百も承知だ。でもビジネスだから、あえて「留学生」で通してくれる。そういう大人の対応。ありがたい。
でも、念には念を入れよう。
ここで前世のビジネス交渉スキルを発動する。相手の疑念に正面から反論しない。代わりに、相手の利益を提示する。これが交渉の基本だ。「なぜやるべきか」ではなく「やるとあなたにどんな得があるか」を話す。
『懸念はごもっともです、ハリソン氏。ですが、この件は我が藩が全面的に後ろ盾となっております。万一の不手際に対しては、相応の……配慮の用意もございます』
「配慮」の前に一呼吸置く。この「間」が大事だ。相手に「ああ、追加で金を出すと言ってるんだな」と察させる。直接「金を払います」と言うより、遠回しに言ったほうがスマートだ。前世の営業で学んだ。「金の話は、言わせるな。察しさせろ」
ハリソンの眉がピクリと動いた。そのワードに反応した。食いついたな。
『……ほう。その追加の配慮というのは、具体的にはどの程度をお考えで?』
具体的な金額を聞いてきた。ここで数字を言ってはいけない。先に数字を出したほうが負ける。交渉の鉄則。
『詳細はおいおい。ただ、我々がこの取引を極めて重視していることだけは、お約束します』
金額の代わりに「誠意」を提示する。これも前世の営業テク。「予算はあります。でも先にそちらの希望を聞かせてください」。相手に数字を言わせる。言わせた数字から値切る。
ハリソンが少し笑った。なんだか楽しそうだ。
『君は武士というより、商人みたいな駆け引きをするな』
『褒め言葉として受け取ります』
実際、褒め言葉だ。俺は武士じゃない。魂は社畜で、スキルは中間管理職だ。商人みたいな駆け引きができて何が悪い。むしろ誇らしい。
◇ ◇ ◇
三十分の会談で、全ての段取りが確認された。
三日後の夜、チェルシー号の貨物積み込みのタイミングで乗船する。目立たないように。深夜の港で、貨物に紛れて。コソコソ感がすごい。でもそれでいい。密航なんだから当然だ。
『最後にもう一つ、ハリソン氏』
『何かな?』
『もし万が一、手違いが起きたら……我々の乗船に支障が生じた場合、次の一手はありますか?』
ハリソンが少し笑う。今度は呆れの混じった笑いだ。
『若いのに、随分と抜け目のない男だな』
『備えは万全にしておきたい性分でして』
『いいだろう。もし問題が起きた時は、この建物の裏口へ来なさい。別の足をこちらで手配する。……まあ、そんな面倒が起きるとは思えんがね』
『感謝します。その言葉通りになることを祈っていますよ』
裏口から逃げ込める。バックアッププラン確保。これで一安心だ。
握手して退出。ハリソンの手はがっしりしてた。商人の手だ。握り返す俺の手は、まだ少し震えてる。でも商談中は震えなかった。これが十年の経験だ。本番に強いタイプ。普段は胃が痛いけど、ここぞという時はちゃんと動ける。そういう社畜だった。