作品タイトル不明
第3話「鎖国中に海外出張を命じられました」③
居留地を出る。足が震える。膝が笑う。緊張が解けた反動だ。前世でも大事な商談の後はいつもこうだった。アドレナリンが切れると一気に来る。
でも、やることはやった。段取りは組んだ。逃げ道も確保した。
さあ、あとは実行あるのみ。
宿に戻る。井上が待ってる。腕組みして、仁王立ち。圧がすごい。
「どうだった」
「予定通りです。三日後の夜に乗船」
「問題は?」
「今のところなし。予備の案も確認済みです。万が一の逃げ場もあります」
井上が目を見張る。
「お前、半日で全部詰めたのか」
「はい」
「…………」
井上が腕を組んだまま、じっと俺を見る。何か考えてる。この人、じっと見る時の目が鋭いんだよな。探られてる感じがする。
「伊藤。お前、本当に何者じゃ。足軽の出で、この手際は普通じゃない」
心臓が跳ねる。来た。経歴詐称疑惑。深掘りされると困る。「前世で十年間ブラック企業に勤めてました」なんて言えない。というか信じてもらえない。
「……見様見真似です。英語を学ぶ中で、洋人の交渉術も真似ている……ところがありまして」
「ふうん」
井上は納得してない顔。明らかに。「洋人の交渉術を真似た」って、それだけじゃ説明つかないだろ、と言いたそう。でも、この人は深追いしない。「できるならいい」で済ませるタイプ。
「まあいい。よくやった。飯にするか」
「はい」
助かった。井上さんのそういう「詮索しない」ところ、本当に好き。
◇ ◇ ◇
翌日。山尾、遠藤、野村が合流。
五人が揃った。宿の一室。六畳に大人五人は狭い。でも全員が無事にここにいる。それだけで少し安心する。
山尾が汗を拭きながら言う。
「道中、何事もなくてよかった。一度だけ、関所の手前で役人に声をかけられて肝が冷えたが——」
「どう切り抜けた?」井上が聞く。
「商人の振りをして、こちらの荷を見せた。薬種問屋の手代です、と。向こうは興味なさそうに通してくれた」
おお、山尾さん意外と度胸あるな。真面目で無口だから気弱かと思ってたけど、こういうピンチに強いタイプかもしれない。メンバーの意外な一面が見えると、ちょっと嬉しい。
よし。問題なし。全員無事。さあ、あとは俺の仕事だ。
全員の前で、横浜での交渉結果と今後の段取りを説明する。
「乗船は明後日の夜です。チェルシー号。貨物積み込みのタイミングに合わせて乗り込む。居留地の裏手から港に回り、商会の案内人が待っています。全員、以下のことを守ってください」
指示を出す。
一、当日は洋装に着替える。商会が用意してくれる。
二、刀は持ち込まない。絶対に。
三、英語は俺が全て担当する。船員に話しかけられても反応しないこと。
四、乗船後は指示があるまで船室から出ない。
「質問ありますか」
井上が手を挙げる。挙げなくていいのに。小学生か。
「刀は本当に駄目か」
食い下がるなあ、この人。刀への執着がすごい。わかるよ。武士だもんね。刀は魂なんだよね。でもね。
「駄目です」
「しかし——」
「井上さん。英国の商船に刀を持った日本人が乗り込んだら、船員が何を思うか分かりますか」
「……海賊か」
「そうです。我々は学生として乗るんです。学生が武器を持ってたら、全てが台無しです」
井上が渋い顔をする。めちゃくちゃ渋い。梅干し食った時みたいな顔。でも反論はしない。
「……分かった。置いていく」
よし。感謝します。
次に野村が手を挙げる。控えめに。この子はいつも遠慮がちだ。でも質問があるならちゃんと言える。いいことだ。
「伊藤さん。船酔いの薬はありますか」
ああ……野村、お前もか。俺もそれが一番心配なんだよ。
「……申し訳ないですが、正直なところ、船酔いの薬は気休めです。耐えてください」
「はい……」
可哀想だけど仕方ない。この時代の薬は基本気休めだ。漢方で船酔いが治るなら、現代医学はいらない。俺だって前世でフェリーに乗った時ですら酔ったのに、十九世紀の帆船で四ヶ月の航海。考えるだけで胃液が逆流しそう。
遠藤が穏やかに言う。
「伊藤、よく準備してくれたな。ありがとう」
「いえ。これが俺の役割ですから」
山尾が頷く。
「頼りにしている」
四人の目が俺に集まってる。信頼の目。重い。この視線が重い。四つの魂の重さが肩に乗ってる。いや、五つだ。俺の分も含めて。
でも逃げない。ここで「いや俺なんか頼りにしないでください」と言ったら全員の士気が下がる。俺は公式にはリーダーじゃない。ただの通訳で渉外担当で実務係だ。でも実質的にはこのプロジェクトのPMだ。PMは不安を見せない。不安はプロジェクトを殺す。これは前世で骨身に染みた教訓だ。
「大丈夫です。段取りは組んだ。あとは予定通りやるだけです」
笑って見せる。四人が少しだけ、肩の力を抜く。
大丈夫じゃないかもしれない。でも「大丈夫だ」と言う。言い続ける。それがPMの仕事だし、中間管理職の仕事でもある。上には「できます」、下には「大丈夫」。間で全部吸収する。胃がキリキリするけど、それでチームが回るなら安いものだ。
◇ ◇ ◇
乗船前日。夜。
宿の一室。五人が布団を並べてる。明日の夜には船の上。日本最後の夜だ。……最後じゃない。帰ってくる。絶対に。
眠れない人間が多い。当然だ。明日、文字通り「日本を出る」のだから。帰ってこられる保証もない。いや、俺は知ってる。歴史的には五人は生きて帰る。でも他の四人はそれを知らない。知らないから怖い。当然だ。
野村がポツリと言う。
「……怖いな」
正直な言葉。最年少の野村が最初にそれを口にした。勇気がいることだ。「怖い」と言うのは、この時代の武士にとって恥かもしれない。でも野村は言った。これが彼の強さだと思う。
遠藤が「ああ」と答える。
山尾が天井を見つめたまま「俺もだ」と言う。
沈黙。
井上が言う。「怖くない奴はおらん。だが、行く。それだけじゃ」
さすが井上さん。シンプルで力強い。この人のこういうところが、たぶんチームの芯になる。荒っぽくて酒癖悪いけど、肝心な時にズバッと言える。頼りになる先輩だ。
井上が俺に目を向ける。
「伊藤。お前はどうじゃ」
四人の目が集まる。答えを待ってる。「大丈夫」と言えば安心する。「怖い」と言えば共感を得る。どっちが正しい?
考える。
よし。ここは、正直に行こう。もう隠さない。隠すのにも体力がいる。
「怖いです。正直に言えば、めちゃくちゃ怖い」
野村が少し驚いた顔をする。他の三人も。井上だけは表情を変えない。
「でも」
続ける。
「怖いから、準備した。段取りを組んだ。逃げ道も確認した。怖いのは変わらないけど、やることが全部見えてるから。あとは一つずつ潰していくだけです」
沈黙。
山尾が小さく笑った。
「伊藤らしいな。怖いけど準備はしてある、か。なんだか安心するぞ、その言い方」
遠藤が頷く。
「ああ。具体的で、いい。俺は理屈で納得したい方だから、助かる」
井上が腕を頭の後ろに組んで、目を閉じる。
「よし。じゃあ寝るぞ。明日に備えて——」
そこでチラリと野村を見る。
「おい野村、泣くな。まだ何も始まっとらんぞ」
「泣いてません……目にゴミが入っただけです……」
小さな笑いが部屋に広がる。井上さん、空気を読むのが上手い。不器用そうに見えて、ちゃんとみんなを見てる。この人も、たぶんいい中間管理職になるタイプだ。
緊張が少しだけ解れた。
さあ、寝よう。明日は長い一日になる。