作品タイトル不明
第三十話 家族の話をするには、少し覚悟がいる
とても大きなため息が、廊下にいる私にまで聞こえてきた。
とうに夕日は落ち、帰ってきた我が家はあちこちで蝋燭の火が灯されていた。廊下の天井は高いものの、白漆喰や金箔を使った装飾品の数々のおかげで足元まで明るさが保たれている。ベオフリックが危なくないように、とわざわざ設計士へ追加で注文をつけたものだ。
そのベオフリックの遊び部屋に近づくと、大の大人の、それもアマベルやメイドのものではない声量のため息が聞こえてきたものだから、私も少しは身構え、立ち止まる。
すると、数歩先にある遊び部屋の扉が、少し開いていた。
「……どうにも、うん、苦手で」
「そうなの? もったいないわねぇ」
聞こえてきた二つの声は、明らかに話していた。
「プルケリアはいい子だし、邪険にしたくない気持ちは分かるわ。もちろん、あなたに我慢しろと言っているわけじゃないわよ?」
「はあ、お気遣い、痛み入ります」
「やだ、気にしないでちょうだいな。息子と同じくらいの年齢の殿方が弱っている姿を見ると、つい世話を焼きたくなるのよ。私に何かできることがあればいいのだけれど、どう?」
アマベルの少ししゃがれた声と、長兄ウルフスタンの困った声。
ベオフリックの遊び部屋にいるのは、普段では想像できない組み合わせだった。
「あら、ベオちゃんったら、やっぱり大きな膝の上だと寝心地がいいのかしら」
「ははは……昔は弟や妹たちにも枕やベッドにされたものです」
「お兄ちゃんだものね。そんなに好かれて面倒見がいいなんて、ご両親も大助かりだったでしょう?」
「そう、かもしれません」
わずかに言い淀み、すぐに長兄は真面目に釈明した。
「ああいや、父はともかく、母はあまり記憶がないので」
「あらやだ、ごめんなさい」
「いえ。我が家は事情が複雑ですから」
「それを言うなら、貴族はどこも複雑よ。私だって、セダル公爵家に嫁ぎたくて嫁いだわけじゃないし」
「えっ」
「ほら、うちの姉は国王に嫁いで、私は添えものとして来たから、じゃあセダル公爵家の若当主にするか、って適当に決められちゃったの。当時はまだ若かったし、大人の言いなりにしかなれなくて、つらいかどうかさえも自分じゃ分からなかったのよ」
それは貴族令嬢にとってよくあることだが、アマベルの出自を考えると考えさせられるものがある。
かつて、アルソナ王国の隣にはオールス王国という小国があった。王妃マルタとアマベルはそこの王女姉妹で、オールス王国がアルソナ王国へ併合される際に嫁いできた経緯がある。
姉は王妃になり、盛大に祝われ、注目を集めていたことだろう。しかし、妹のアマベルは本人の言うとおり『添えもの』でしかなく、オールス王室がなくなるのでついでにアルソナ王国の有力者へ嫁がせておく、程度の価値しかなかったはずだ。
文字どおりの深窓の令嬢、王女殿下であったアマベルは、歴史が浅く権力基盤も脆いセダル公爵家へ、事実上の厄介払いとして押しつけられた。それが当時の真相だろう。
だが、アマベルはそれで終わらなかった。
むしろ、そこからアマベルの人生が花開いたのだ。
「でもね、 アルバート(バーティ) が生まれてから、私、こう思ったのよ! 『ああ、この子のためなら何でもできるわ!』——って。そこから、色々と動くことを覚えたの。歩くと足が痛くなることだって、そのとき初めて知ったわ。息子の身の回りの世話をメイドや乳母から奪い取ってしまって怒られたりね、夫はすんなり理解してくれたけど」
アルソナ王国の高位貴族は、実の親が手ずから子どもを育てることはまずない。平たく言うなら同じ家にいる家長と一員でしかなく、教育は使用人や教師がやることだからだ。
アマベルは、本当にアルバートを愛しているからこそ、育てたいと願った。それは確かなことであり、結果はどうあれそうなのだ。きっと。
「あの子のためなら、私自身の痛みやつらさなんてどうだっていいわ。とにかく、今の私にできることを、生み出せるすべてを遺したいの」
アマベルは愛おしげにここにはいない息子について語り、私が今まで聞いた噂とさほど違わぬ己の人生を振り返った。
それに相槌を打つのが我が長兄でなければ、私はとっくにこの場から動き出している。
「それは、母は強しというものでしょうか」
「多分そうじゃないかしら。あり方や人生なんて人それぞれだから、決まった形はないけれど……それでも、親は子を愛するものでしょう? 例外はあっても、表に出せなくても、どこか心に引っ掛かるものがあることは事実のはずよ、きっと」
「なるほど。うーむ……」
「何か気になることでもある? 私でよければ聞くわよ?」
アマベルに促され、長兄は重々しく、悩みつつも、自発的に話しはじめた。
「現イヴェルタリー伯爵、つまり我が家の父のことですが」
「うんうん、あの方ね」
「最初の妻になるはずだった——俺と次弟の母は、父の遠征中に屋敷が襲撃を受け、俺の目の前で殺されたのです」
しばし、アマベルの声がしなかった。
それでも、長兄は間を見計らって、話を続ける。
「父の遠征後に結婚式を挙げる予定で、正式にイヴェルタリー伯爵夫人となる前に母は亡くなったため、本来なら書類の上では俺も次弟も庶子という扱いになります」
「あら、あら、まあ……」
「ただ、末弟の母は父を裏切って父の暗殺に加担したため、処刑後婚姻は無効となりました。なので末弟も庶子です」
「そうなの!? えっ、じゃあ、一番下の妹のトリッシュが嫡子というわけなのね?」
「いえ、トリッシュの母は産褥熱で亡くなりました。父に懐妊も出産も知らせなかったため、結婚はおろか手当もできず、父が行方を探し当てたときにはまだ産衣に包まれていたトリッシュを連れて帰ってくるだけで精一杯だった、と」
それを聞いても、私は黙っていた。
吐息一つ音をさせず、ため息などもってのほか、ただ己の気配を限界まで殺して、気付かれぬよう立ち尽くす。
それが、私の『精一杯』だった。
「なので、本当なら兄弟の全員が現当主の後継者、嫡子の資格はないのです。ただそれでは武門としても家としても成り立たないため、一族の総意を得て長兄の俺が嫡子ということになっている。それだけなのです」
しん、とまるで屋敷中が静まり返ったかのような錯覚を受けた。
アマベルが喋りだすまで、私には何の音も届いていなかった。鼓動さえも、忘れてしまったかのようだった。
長兄の過去の告白に、アマベルは真摯に対応する。
「何だか、ものすごいことを聞いてしまった気がするわ。ううん、打ち明けてくれてありがとう。その信頼に応えて、セダル公爵夫人アマベルの名にかけて、誰にも言わないわ!」
「助かります。まあその、そういう事情があって」
ここまでの話は、 前(・) 提(・) の(・) 開(・) 示(・) だった。
長兄の抱えるものについては、ここからが本題となる。
「目の前で死んだ母のように、父の愛した女性たちのように、プルケリアにはなってほしくないのです」