作品タイトル不明
第七十八話「逃走」
トリア暦三〇一七年十月十二日、午後六時前。
アルス街道の宿場町ソーンブローの東に広がる森に夕闇が迫ってきた。
木々の間から差し込む光はオレンジから赤に変わり、それすら弱くなりつつある。
ダンたちと別れてから既に一時間半ほど経った。トラブルが起きていなければ、城塞都市であるソーンブローに到着してもいい頃だろう。
オークたちを 影流離(シャドウストーク) の魔法で足止めすることに成功し、既に一時間半ほど引き摺り回していた。だが、日が落ちてしまえば、この方法は取れなくなる。この魔法は闇属性魔法であるにも関わらず、影を作り出す光がなければ成立しないからだ。
この一時間半の間に判ったことがある。
敵には今現在、指揮を執る魔族がいない。最初は離れた場所から指揮を執っていると思っていたが、これだけの時間を無為に浪費し続けているにも関わらず、全く対応しないのは明らかに異常だ。何らかの事情があり、魔族がオークから離れたとみる方が合理的だろう。
だが、最初から魔族などいなかったということは考え難い。
カウム王国で開拓村を襲った後、襲われた村の若者がボグウッド――カウム王国の国境の町――に現れたことやオークたちが武器を手にしていることを合わせて考えれば、知性のある指揮官がいたと考える必要がある。オークの突然変異種が現れたという可能性も考えられないこともないが、少なくとも目の前にそのような個体はいない。
(いずれにしても、ここにいるオークたちはただのオークに過ぎない。いや、普通のオーク以上の戦闘力はありそうだが、狂気に支配されている分、うまく動けば逃げ切れるはずだ……)
影が消えた後、オークたちがどう動くかが最大の懸念だ。
未だに闇の精霊の力を追っている状況から、ルナを追いかけるように西に向かう可能性が高い。だが、日が落ちると闇の精霊の力が周囲に満ちるため、どう動くかが判らないのだ。
西に向かうのなら、木の上に逃げておけばいい。だが、俺たちに向かってくるなら、木の上に逃げることは下策だ。木の上では満足な休養は取れないから、体力、魔力ともにあまり回復しないだろう。それでも一晩だけ木の上で我慢すれば、ソーンブローから救援が来るのなら希望はあるが、現状ではソーンブローに二百以上のオークを掃討する戦力はない。
正確に言うとソーンブローに戦力はある。町に滞在している商隊の護衛たちを合わせれば二百人以上はいる。更にこの辺りで魔物を狩る冒険者たちも五十人程度はいるだろう。それに守備隊百人に彼らを加えれば、四百人近い戦力が揃うはずだ。
だが、それは机上の空論だ。町が襲撃されているわけでもないのに、商隊の護衛である傭兵たちを強制的に徴用することはできないし、傭兵たちも金にならない戦いには参加しない。冒険者たちは冒険者ギルドが依頼を出せば参加するかもしれないが、相当いい条件でなければ危険な作戦には二の足を踏むはずだ。
そう考えると、ダンたちの報告を受けた守備隊の幹部は、まずペリクリトルに救援を求めるはずだ。つまり、俺たちの救出作戦は行われない可能性が高い。
ペリクリトルまで早馬で二日、オークの掃討部隊を編成し、ここに来るまで十日近い日数が掛かる。それまで木の上に居続けるわけにはいかないから、この案は採用できないのだ。
リディとベアトリスにハンドサインで脱出する旨を伝える。
二人も俺と同じ考えなのか、すぐに了承の合図が送られてきた。
日が落ちきる前に 影流離(シャドウストーク) を俺たちから最も離れた場所に移動させる。木の枝を伝わっているように見せながら、東の方に誘導していく。オークたちは影に誘われるように東に向かった。
その間にリディが木の上から下りてきた。ベアトリスもすぐに合流した。
「すぐに逃げるのね」
俺が頷くと、ベアトリスが、「逃げの一手だよ」と念押ししてくる。
言われるまでも無く、俺も反撃する気はなかった。走りながら魔法を放つくらいはするかもしれないが、基本的には全力で道を駆け抜けるつもりだ。
不要な装備は全て 収納魔法(インベントリ) に入れていく。
森は完全に闇に包まれ、俺の影が消えた。
オークたちは突然消えた闇の精霊の力に戸惑い、苛立ちの咆哮を上げる。再び、狂騒的な動きを見せ、西に向かい始めた。
何とかなりそうだと安堵するが、すぐに状況が変わった。
西に向かい始めたオークたちだったが、なぜか動きが止まってしまったのだ。先ほどまでのような狂騒的な動きはなく、何をしていいのか判らないという感じで右往左往していた。
俺たちは素早く西に向けて逃走を開始した。
ベアトリスを先頭にリディが続き、俺が 殿(しんがり) で走り始めたのだが、時折吹き抜ける風が俺たちの匂いを運んだのか、一匹のオークが剣を振り上げ、咆哮を上げると、そのオークに釣られるように咆哮を上げ、俺たちを追い始めた。
オークたちとの距離は百五十mほど。疲労は溜まっているが、先ほどまでとは違い、全力で走ることが出来る。幸い、オークは足の速い魔物ではなく、すぐに追いつかれることはないだろう。
“三”対“二百”の壮絶な“鬼ごっこ”だった。
オークたちは太い脚で草や潅木を押し倒しながら、憤怒の表情で追い縋る。
俺たちは追いつかれたら終わりだと足を止めることなく、走り続けた。
先ほどまでの狂ったような走りとは異なり、オークたちは闇雲に走ることなく、走りやすいルートを選んでいた。こちらは初めての土地ということで、蛇行している道を行くしかなく、速度差があるにも関わらず、引き離すことが出来ない。
(何が原因かは分からないが、今は 普通(・・) のオークだ。狡猾さがある分、さっきより厄介かもしれない……このままでは危険だ。どうする……)
焦慮だけが募るが、打開策が思いつかない。
走りながらでは集中できないため、強力な魔法は使えない。一度足を止める必要があるが、精霊の力を集めている間に取り囲まれてしまうだろう。
(呪文を唱えるも何も心臓が破裂しそうで、まともに声が出せるとは思えない。無詠唱は効率が悪すぎる。どうしたらいいんだ……)
全力に近い速度で既に十分近く走っている。速度差がある分、距離が少し取れたところで速度を緩め、何とか走り続けているという状況だ。リディもベアトリスも息が上がり、ぜいぜいという荒い息だけが聞こえてくる。
オークたちも同じように荒い息を吐きながら追いかけてくるが、諦める様子はない。
(日が落ちるまでの狂ったような感じはない。今なら 闇蝶の円舞(スパングルワルツ) も効きそうなんだが、発動させるには時間が無さ過ぎる……魔法以外で打開する方法は……)
街に近づいてきたのか、道はほぼ直線となり、俺たちの後ろにはオークたちの長い列が出来ている。
(先頭集団を混乱させられれば、多少の時間は稼げるんだが……あれが使えないか!)
俺は 収納魔法(インベントリ) に保管しておいた、ある物のことを思い出した。
「はぁはぁ……時間を稼ぐ……ほ、方法を思いついた……はぁはぁ……少しだけ距離を詰めさせる。先に行ってくれ……はぁはぁ……」
荒い息で二人に作戦を伝えようとしたが、息が続かず、説明しきれない。
「はぁはぁ……何をする、はぁ……つもりなの……はぁはぁ……」
リディがそう聞いてくるが、「任せろ」というように腕を軽く上げて応えるだけにした。
僅かに速度を緩めると、五十mほど空いていた距離がすぐに縮まる。
(確か、ここにあったはずだ……Fの五番だ……よし、勿体ないが、そんなことは言っていられない……)
インベントリから一kgほどの粉末が入った布袋を取り出す。
走りながら口を縛ってある紐を解き、二十mほどに迫ったオークたちに向けて放物線を描くように放り投げた。開いた口から粉末がばら撒かれていく。
先頭を走るオークが剣でその袋を叩き斬ろうとした。柔らかな布袋は断ち切られること無く、更に中身をばら撒いていく。
細かい粉末が舞うが、オークたちは無頓着に突き進んでいく。その直後、先頭を走っていた二匹のオークが武器を投げ捨て、顔を掻き毟るように手で覆い、バランスを崩して転倒する。そして、後ろから来るオークたちも同様に粉を被った瞬間、悶え苦しみ始める。更に後方では悶え苦しむ仲間に躓き、長く延びた隊列は混乱に陥っていた。
中には転倒した仲間を避けようと道を外れて行く者もいたが、そのオークたちも突然速度を落としていく。
そして、オークたちのくしゃみが森に響き始めた。
そう、俺の投げたものは 白胡椒(ホワイトペッパー) だ。ウェルバーンで購入した細かく挽いたもので、村に戻ったときに必要な分はメイド長のモリー・ヴァッセルに渡したが、余分に購入しておいた分は品質を保つため、時間経過を遅くした 収納魔法(インベントリ) に保管しておいたのだ。
走り続け、息が上がっているところに胡椒の粉末がオークの鼻や喉の粘膜を襲えば、強い刺激で走り続けられなくなる。そうなれば、長い列を作っていることから将棋倒しのような現象が起きるのではないかと狙った策だった。
僅かだが、時間は稼げた。
リディとベアトリスは俺を待つため、距離を取ったところで立ち止まっていたが、何が起こったのか判らず、困惑の表情を浮かべていた。
「はぁはぁ……な、何が起きたんだい? 新しい魔法かい?」
俺は苦笑気味に首を横に振るが、「先を急ぐぞ」と言って走り始めた。
この胡椒作戦で二百mほどの距離を稼げたが、それでも立ち止まれば一分ほどで追いつかれるほど僅かな距離だ。
その僅かな時間を利用し、次の手を打つことにした。
簡単な魔法なら無詠唱で発動できる。息が上がった状態で使える魔法で簡単な罠を設置しながら、走り続けていった。
その罠の設置で再びオークたちとの距離が縮まる。五十mほどまで接近されたところで、罠の設置を止め、逃げることに専念する。
突然、一匹のオークが転倒した。
そして、それに巻き込まれるように数匹のオークが転倒する。だが、他のオークたちは怒りの咆哮を上げて転倒した仲間を避けるが、何事もなく追跡を続けていく。
数秒後、再び一匹のオークが転倒した。そこでも何匹かのオークが巻き込まれて転倒する。さすがに二度続けば、オークたちも俺が罠を仕掛けたことに気付いたようだ。罠に巻き込まれなかったオークたちは足元を警戒し始めた。だが、その後も数回罠に掛かり、その都度、オークたちの動きが遅くなっていく。
今回使った魔法は土属性魔法である 落とし穴(ピット) の魔法だ。
それも大きな穴を作るのではなく、直径二十cm、深さ五cmほどのへこみのような穴を作っただけだ。精霊の力が集まらないことと、時間を掛けたくなかったため、走りながら手の平を地面に押し当て、魔法を発動して凹みを作っていったのだ。
普通なら、この程度の罠でどうこうできるものではないが、オークたちが狭い道を追いかけてきていること、足元が草で覆われ見辛いことから、嫌がらせのような罠でもある程度の効果を上げている。そして、いくら愚鈍なオークとは言え、何度も倒れれば警戒する。警戒すれば、その分速度は落ちるし、道が危険だと思って森を進んでくれれば、それでも走る速度は落ちる。その効果を狙ったのだ。
嫌がらせに近い策を講じながら走り続ける。途中で灰色熊や森狼などの死体がいくつか転がっていた。メルたちに襲いかかった魔物が返り討ちにあったようだ。
一瞬しか見ていないが、三m近い巨体の灰色熊が左脚を完全に断ち切られ、首にも大きな斬撃の跡が見えた。
(僅か二太刀で倒しているのか……魔法剣を使ったにしても恐ろしい技のキレだな……)
更に走り続け、ようやくソーンブローの街が見えてきた。城塞都市であるソーンブローの高い城壁の上に、多くの篝火が見え、まるで灯台のように 誘(いざな) っていた。願望がそうさせているのか、いつもより明るく、更に輝きに満ちているように見え、脚に力が戻ってくる気がした。
(これで何とかなる。後は城門でどう防ぐかだ。タイミング良く門が閉められればいいんだが……)
そんなことを考えていたが、決して油断していたわけではなかった。
だが、あと百mほどで森から抜けられるというところで、リディが木の根に足をとられて転んでしまったのだ。
既に三十分近く走り続けており、その疲労がいつもの感覚を狂わせ、転倒を防げなかったようだ。
その時、オークたちとは百mほど離れていたが、リディが転倒したのが見えたのか、歓喜の咆哮をあげて向かってくる。
「リディ!」
俺の叫びに「だ、大丈夫! 先に行って!……はぁはぁ……」と言い返す。だが、溜まった疲労と転倒した時に足を挫いたのか、剣を杖に立ち上がろうとするが、中々立ち上がれない。
ベアトリスがすぐに肩を貸すように引き起こすが、やはり左足を捻挫しているのか、バランスを崩してしまう。
リディは「はぁはぁ……私を置いて逃げて! 早く!」と叫び、ベアトリスを振り払う。
俺はふぅと息を大きく吐き、
「はぁはぁ……足首だな……森を作りし偉大なる 木の神(アルボル) よ……ふぅぅ……生命を育む精霊の力により、 彼(か) の傷を癒したまえ。我は代償に命の力を捧げん……」
治癒魔法を掛けようと呪文を唱えるが、息が続かず呪文が唱えられない。リディが「何をしているの!」と言っているが、それを無視して魔法を掛ける。
「…… 治癒の力(ヒール) 」
魔法を掛け終えたとき、オークたちは目の前に迫っていた。その数は見える範囲だけでも数十匹、すぐに百以上に膨れ上がるだろう。
「はぁはぁ……どうやら、逃げ切れなかったみたいだな……だが、悪足掻きはさせてもらう」
ベアトリスは既に息を整えており、「どこまでやれるかやってみようじゃないか」と不敵な笑みを浮かべていた。
原因となったリディは涙を浮かべながらも、剣を抜き、「どうして……」と呟いていた。
俺はアダマンタイトの魔法剣を構えながら、
「置いていけるわけがないじゃないか。なあ、ベアトリス?」
軽い口調でそう言うと、「そうだね。置いていけるわけがない」と答え、目の前に迫ったオークに槍を突き出していた。
ベアトリスは槍に魔法は纏わせていないが、俺とリディは魔法を纏わせている。暗闇の中にオレンジ色の眩い光が揺らめく。
大木を背に武器を振るっていく。
既に俺の魔力も三分の一ほどに減っており、それほど長い時間は発動させておけない。リディもかなり魔力を使っていたので似たようなものだろう。
何重ものオークの輪が俺たちを包み込む。
そこからは一心不乱に剣を振り続けており、あまり記憶がない。倒しても倒してもオークが途絶えることは無く、徐々に包囲は狭まっていく。疲労と敵の多さで何度か攻撃を受けたが、ゲオルグ・シュトックの黒龍の鎧が守ってくれ、動けないほどのケガは負っていない。リディやベアトリスの様子が気になっていたが、ひたすら目の前に来た敵を捌くことしか出来なかった。
何分戦っていたのか判らないが、突然、西の方から「「オゥ!」」という鬨の声が上がった。
その声にオークたちが反応する。
俺も隙を作らないように声の方を見た。そこには数十、数百という数の灯りの魔道具と松明の光、更には青白い光とオレンジ色を放つ二本の魔法剣が見えた。
「ザック様! ご無事ですか!」
遠くからメルの甲高い声が聞こえてきた。
その直後、突然真っ赤な炎が視界に広がった。俺たちを囲むオークたちに放たれたものだが、暗闇の中では目が眩むほどの明るさだった。
恐らくシャロンが放った火属性魔法なのだろうが、何の魔法か判らないほどの熱量を孕み、十mくらい離れているのに肺が焼けるような熱風を感じた。
その直後、爆音と共に一本の楢の大木が圧し折れる。
その魔法と突然現れた人々にオークたちは森の奥に後退し始めた。シャロンの魔法が再び打ち込まれると、オークたちは算を乱して逃げていった。
「助かった……リディ、ベアトリス、無事か……」
戦闘の緊張が解けた瞬間、強い疲労と痛みが襲ってきた。
「あたしは大丈夫だ。打ち身は酷いが、骨は何とも無さそうだ。ゲールノート殿には感謝しなきゃね」
ベアトリスの革鎧はボロボロになっているが、中に着込んでいるチェインメイルはオークたちの攻撃を完全に防いでいた。
「私も大丈夫……本当にごめんなさい。私が転ばなかったら……」
涙ぐみ、最後の方は消え入るような声になっていた。最後の最後で転んだことを悔やんでいるようだ。
「仕方がないさ。あの状況で最後まで何も起こらないって方がおかしいとあたしは思うね」
「俺もそう思う。誰がミスをしてもおかしくない状況だったんだ。とにかく、結果が良かったから、今は忘れていい」
あまりに落ち込んでいるリディが見ていられなかったので、話題を変えることにした。
「魔法が撃てそうなら、そこらに水を掛けておいてくれないか。俺はもうすっからかんだ」
シャロンの放った魔法のため、下草や潅木が燻っていたのだ。
「この状況じゃ仕方がないが、火事になり兼ねん」
リディは小さく頷くと、燻っている草に水をかけていく。
そんなことをしていると、メルたちが近づいてきた。
メルは「良かったぁ!」と泣きながら、俺に抱き付いてきた。
後ろにはダンとシャロンが安堵の表情を浮かべながら近づいてくる。更にその後ろには、守備隊らしき兵士と傭兵らしき集団がいた。彼らは両手に灯りの魔道具か松明を持っていた。
(ざっと見たところ、二百人以上はいるな。もしかしたら、三百人を超えているかもしれない……それだと、ソーンブローにいる傭兵のほとんどが参加していることになる……誰が手配したんだろう……)
そんなことが頭を 過(よ) ぎるが、今は疲労と魔力切れのせいで頭が回らない。抱き付きながら泣きじゃくるメルをなだめ、泣き笑いのような表情を浮かべるシャロンの頭に手を置き、「助かったよ」と声を掛ける。
シャロンも泣き崩れそうになるが、ベアトリスが「今のうちに町に入っちまうよ」と言って俺たちを促した。
疲労で重くなった足を引き摺りながら、今日の出来事について考えていた。
(結局、何が起きたんだろうな。いると思った魔族はいないし、行動に整合性がない。オークたちの行動もおかしな点が多かった。何が目的でカウム王国の開拓村を襲ったのか……ティセク村はルナがいたからだろうが、だとすると、あのオークたちは“神々”の敵が送り出した者たちなのか?……いずれにしても情報が少なすぎる。とりあえず、今は あの子(ルナ) の安全を確保することを考えるしかないな……)