軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第5話 卵焼き外交

「エレノーラ、晩餐会のメニューに君の卵焼きを出せ」

「……閣下、外交の場ですが?」

真顔だった。

ヴィクトルは執務室の椅子に座ったまま、書類から目を上げもせずに言った。来月の外交晩餐会——隣国ヴェルデン帝国の大使をもてなす公式行事のメニュー監修を、私に任せたいらしい。そこまではいい。光栄ですらある。

でも、卵焼きは違うと思う。

「外交晩餐会ですよ? コース料理です。卵焼きを出す晩餐会が、世界のどこにあるんですか」

「ここにある」

「ありません」

この人に冗談が通じないことは、もう知っている。四ヶ月前に出会った時からずっとこうだ。言葉の裏がない。表もない。ただ、額面通り。

(どうしてこの国の宰相は、卵焼きにこんなに真剣なのかしら)

「……では、コースの中に卵料理を一品組み込む形で検討します」

「甘い方がいい」

「メモしておきます」

溜め息を飲み込んで、私はメニュー案を書き始めた。

* * *

晩餐会の三日前。試食会。

宰相邸のダイニングに、コース料理の全七品を並べた。前菜から甘味まで、和食をベースに異世界の食材で再構成したもの。

出汁を使った冷製スープ。香草と柑橘で締めた魚。根菜の炊き合わせ。そして——甘い卵焼きを薄く切って、細切りの漬物と盛り合わせた一品。

ヴィクトルは無言で全品を食べた。一品ずつ、丁寧に。

最後の甘味——蜂蜜と果実のゼリー——まで平らげてから、箸を置いた。

「卵焼きは、もう少し甘い方がいい」

「……まだ甘くするんですか」

「俺の好みだ」

「閣下のための晩餐会ではありませんが」

「俺が食べる」

理屈が通っているようで、まったく通っていない。

でも負けた。——甘くする。蜂蜜を足そう。

(この人、味の好みだけは絶対に譲らないのね)

七品を食べ終えたヴィクトルが、珍しく口を開いた。

「問題ない。これで行け」

短い。でも、この人が料理に感想を言うこと自体が稀だ。

それが「問題ない」であっても——合格という意味だとわかるようになった。四ヶ月かかった。

* * *

晩餐会当夜。

王城の大厨房は、戦場だった。

火の前に立ち、六人の城付き料理人に指示を飛ばす。スープの温度、魚の焼き加減、盛り付けの配置。一度目の人生で夜会の裏方を回した経験が、ここでも活きた。

違うのは、今回は自分で立候補したということ。そして、料理の中身を自分で決めたということ。

「三番、スープの仕上げ! 塩は入れないで、出汁だけで!」

「は、はい!」

配膳が始まった。

厨房と会場を繋ぐ配膳口から、大広間の様子が見える。

——あ。

金色の髪。大広間の上座に座る長身の男。

セドリック。

胃がきゅっと縮んだ。

毒の味が、一瞬だけ喉の奥に蘇る。反射だ。この男の顔を見ると、体が覚えている。

(大丈夫。あの人はこちらを見ていない。私は厨房にいる)

その隣に——リーリアがいた。慎ましやかに微笑んでいる。

二人のことは、もうどうでもいい。本当に、どうでもいい。

配膳口の向こうで、料理が運ばれていく。

前菜のスープ。魚。炊き合わせ。一品ごとに、会場の反応が変わるのがわかる。

「これは……素晴らしい。この出汁という技法、我が国にはない」

太い声が響いた。ヴェルデン帝国の大使、ハインツ伯爵。恰幅のいい男が、スープの皿を覗き込んでいる。

「宰相閣下、この料理人を是非ご紹介いただきたい」

ヴィクトルの声が返る。「後日、改めて」。短い。いつも通りだ。

甘い卵焼きが運ばれた時、ハインツ伯爵は目を見開いた。——配膳口からでも、その表情がわかった。

そして、配膳口の隙間から、もうひとつ見えたもの。

セドリックが、料理を運ぶ給仕の動線を目で追っている。その視線が、一瞬だけ厨房の方を向いた。

目は合わなかった。でも——気づいたかもしれない。

(……構わない。気づいたところで、もう関係ない)

最後の甘味を送り出し、私は厨房の壁にもたれた。

終わった。全七品、滞りなく。手が震えている。——緊張していたのだ、ずっと。

* * *

片付けは深夜まで続いた。

宰相邸に戻り、自分の厨房で使った道具を洗っていると、ヘルタさんがお茶を持ってきてくれた。

「お疲れさま、お嬢ちゃん。大成功だったって、閣下が言ってたわよ」

「閣下が? あの人が?」

「珍しいでしょう。わたし、坊ちゃまが料理を褒めるの、初めて聞いたわ」

ヘルタさんは湯気の立つカップを差し出しながら、少し遠い目をした。

「あなた、ヴァイス伯爵夫人——先代の奥さまに似ていらっしゃるわ」

手が止まった。

「お母さまを、ご存知なんですか」

「昔ね、少しだけお世話になったことがあるの。わたしが若い頃、伯爵邸で働いていた時期があってね。奥さまに料理を教わったのよ。優しい方だった」

母の名前が、こんなところで出てくるとは思わなかった。胸の奥が、じんと痺れる。

「奥さまのお部屋にはね、暖炉の脇に素敵な棚があって。手書きのレシピ帳を大事にしまっていらしたわ。『いつかこの子に渡すの』って、あなたのことを話してくださって——」

心臓が跳ねた。

暖炉の脇。棚。レシピ帳。

——あの老女が言っていた。「暖炉の裏を」と。裏ではなく、脇の棚。その近くに、何かがある。

「ヘルタさん、その棚は、まだあるんでしょうか」

「さあ……もう二十年以上前の話だから。でも、あの部屋は奥さまが亡くなってからそのままだと聞いたわ。後妻の方が、あまりお好きじゃなかったようで」

義母は母の部屋に近づかなかった。

つまり——棚も、その中身も、まだ残っている可能性がある。

(行かなくちゃ。確かめに)

でも今夜ではない。まずは情報を整理して、段取りを——。

「エレノーラ」

玄関先に、ヴィクトルが立っていた。

外套を着たまま。帰宅したばかりらしい。靴の泥が、夜道を歩いてきたことを示している。

——送迎の馬車を使わなかったのだろうか。

「よくやった」

短い。たった四文字。

でも、灰色の瞳がまっすぐ私を見ていた。書類を読む時の目ではない。もっと——なんだろう、柔らかい。

「……閣下に褒められると、なんだか変な気持ちです」

「変?」

「嬉しいのか恥ずかしいのか、わからなくて」

言ってから、顔が熱くなった。何を言っているんだ、私は。

ヴィクトルは何も返さなかった。

ただ——視線を逸らした瞬間、耳の先が赤かった。

(……暑いのかしら。もう八月だし)

八月だし。そう、八月だから。それだけだ。

「閣下、それと——隣国のハインツ伯爵から、何かお話があったようですが」

「ああ。君の料理を気に入ったらしい。詳細は明日話す」

それだけ言って、ヴィクトルは屋敷の中に消えた。

一人残された玄関先で、夏の夜風に当たる。

胸の中に、二つのものが渦巻いている。

母の部屋。暖炉の脇の棚。確かめに行かなくてはいけない。

そして——ハインツ伯爵の「話」が、少しだけ気になる。

でも今夜は、まず。

(甘い卵焼き、もう半分残ってるんだった。明日の朝食に出そうかな)

星が綺麗な夜だった。