軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第10話 食卓のプロポーズ

宰相邸のダイニングに、二人分の食器が並んでいる。

——その光景を、まだ知らない。

貴族会議から一週間。

王都では、いくつかのことが静かに動いていた。

義母マティルデは後見人資格の剥奪と横領の弁済を命じられ、実家の男爵家に送還された。馬車一台分の荷物だけを持って。かつて社交界を闊歩した女の、小さな退場だった。

ルシウスは王室管理下の伯爵邸に残り、新しい教育係のもとで暮らしている。アルベールさんが、あの子のごはんを作ってくれているらしい。——それだけが、救いだ。

リーリアは中傷工作の露見で聖女としての信頼が大きく揺らぎ、宮廷での居場所を失いつつある。

セドリックは政治基盤の弱体化が止まらない。内政を回す実務能力がないことを、貴族たちは薄々気づき始めていた。

全部、私が何かをしたわけではない。

私はただ、ごはんを作っていただけだ。

* * *

王城の私室で、セドリックは一人、窓の外を見ていた。

秋の庭園が赤く染まっている。風が木の葉を散らしている。——美しいはずの景色が、今はどこか空虚に見えた。

机の上に、晩餐の皿がある。城の料理人が作った、申し分のない宮廷料理。味は整っている。盛り付けも完璧だ。

なのに、箸が進まない。

(——あの味が食べたい)

茶色い、地味な煮物。

素朴な匂い。甘くて、温かくて、王宮の食卓には似合わないもの。

エレノーラが持ってきた日のことを、何度も思い出す。「殿下にお召し上がりいただきたくて」と差し出した手を、俺は笑って押し返した。庶民の味だと。王太子の食卓に出すものではないと。

あの煮物を——一口でも食べていたら。

彼女の顔を、ちゃんと見ていたら。

(もう遅い)

もう二度と、あの味は食べられない。

あの味を作れる人は、俺ではない男の隣を選んだ。

宮廷料理の皿を、手つかずのまま下げさせた。

食欲がない。ここしばらく、ずっとだ。

* * *

夕刻。

ヴィクトルから「今夜、ダイニングに来てほしい」と伝言があった。

珍しい。

あの人がダイニングを指定することなんて、今までなかった。いつも執務室の小テーブルだ。

着替えを——いや、着替えるほどのことでもない。エプロンを外して、髪を整えて、手を洗う。厨房の匂いが染みついた指先を、丁寧に。

ダイニングの扉を開けた。

——息を呑んだ。

蝋燭が灯っている。三本。窓際に並べて。

テーブルには白い布がかけられ、食器が二人分。ヴィクトルは椅子に座って待っていた。

いつもの執務服ではない。正装だ。黒い上着に白いシャツ。髪を——少しだけ、整えている。

(……え?)

そして、テーブルの中央に——鍋。

蓋を取ると、中には煮物が入っていた。

根菜と鶏肉。茶色い汁。見覚えのある、地味な見た目。

ただし——形が崩れている。根菜は大きさがばらばらで、鶏肉は煮すぎて繊維がほぐれかけている。味見をする前からわかる。これは——。

「……閣下、もしかして」

「作った」

「これを?」

「エレノーラが初めて作った煮物を、もう一度食べたかった。しかし俺には作れなかった」

一口食べた。

——薄い。出汁が足りない。塩も少し足りない。根菜には芯が残っている。

あの日の私の煮物も、味が不安定だった。でもこれは、それ以上に不安定だ。粥を焦がした人が、よくここまで形にしたと思う。

「閣下、これ——」

「不味いのはわかっている」

「不味くはないです。出汁をもう少し足して、塩を——」

「エレノーラ」

名前を呼ばれて、口を閉じた。

ヴィクトルが立ち上がった。テーブルを回って、私の正面に来る。

灰色の瞳が、真っ直ぐ私を見ていた。蝋燭の炎が、その中で揺れている。

「あの時から——君が初めてあの煮物を作った日から、俺の食事は変わった」

声が、いつもより低い。いつもより、ゆっくりだ。

「弁当を別のテーブルで食べたのは、君の料理をちゃんと味わいたかったからだ。書類の隙間で食うのは、もったいないと思った」

——あの日の小テーブル。

「あの五日間、君の作り置きがなければ、俺は倒れていた」

——距離を取っていた五日間。

「君がスカウトを断った時、安堵した。合理的ではないと、わかっていた。それでも」

——ハインツ伯爵。王国の重要人材だ。

「だから頼みがある」

ヴィクトルが——膝を折った。

この国の宰相が。冷徹で合理的で、感情表現が極度に乏しい男が。食に興味がなく、粥を焦がし、包丁を私費で買い、外套を黙ってかけ「効率がいい」と言い訳して名前を呼んだ男が。

膝をついて、私を見上げている。

「俺の食卓に、一生座ってほしい。——エレノーラ、俺の妻になってくれ」

涙が出た。

止められなかった。止める気もなかった。

「……閣下」

「ヴィクトルと呼べ」

「……ヴィクトルさま」

「……まあいい」

「まずこの煮物の味付けを直していいですか」

ヴィクトルの目が、わずかに見開かれた。

「それは——承諾と受け取っていいか」

「はい」

声が震えた。

「はい。——はい」

ヴィクトルが立ち上がり、私の頬に手を添えた。

涙を親指で拭って——唇が触れた。

短いキス。不器用なキス。でも、温かかった。

出汁の匂いがした。——私の匂いが、この人に移っている。

* * *

宰相邸の朝。

厨房に、出汁の匂いが満ちている。

昆布に似た海藻を水に浸して一晩。弱火でゆっくり。沸騰する直前に引き上げて、削り節を入れる。

——いつもと同じ朝。でも、いつもと違う朝。

ダイニングのテーブルに、二人分の食器を並べた。

棚には、母のレシピ帳が飾ってある。革表紙が、朝の光に照らされて柔らかく光っている。

最後の頁を、時々開く。

『エレノーラへ。あなたがこれを読む頃には、きっと美味しいものが作れるようになっているわね』

——なれたよ、お母さん。

そして、美味しいと言ってくれる人も、見つけた。

足音が聞こえる。重い、規則正しい足音。執務室からダイニングへ。

「おはようございます、ヴィクトルさま」

「……まだ『さま』か」

「おはようございます、ヴィクトル」

「ああ。——おはよう」

椅子を引く音。食器が触れ合う音。箸を取る音。

「今日の卵焼きは」

「甘い方です」

「そうか」

出汁の匂い。

秋の光。

二人分の食卓。

一度目の人生で、私はこんな朝を知らなかった。

二度目の人生で——見つけた。

復讐はしなかった。

王太子も義母もリーリアも、もう関係ない。

私はただ、ごはんを作っていた。好きな人のために、毎日。それだけで、世界は変わった。

これが、私の選んだ食卓だ。