軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第9話 始祖鑑定石

三年ぶりの王都は、灰色に沈んでいた。

比喩ではない。街路に人影がない。店の扉は閉ざされ、窓には布が掛けられている。灰死病を恐れて、住民が家から出られないのだ。

時折、白い布で口を覆った兵士が通りを駆け抜けていく。患者を運ぶ担架。消毒用の薬液を撒く荷車。

あの華やかだった王都が、こんなにも静かだ。

馬を降りて、王宮の門をくぐった。

——五ヶ月前、ここから追い出されたのだ。

胸元のお守りに手を当てた。小さな布袋の感触を確かめて、息を吐く。

翌日。王宮の謁見の間。

レオンハルト殿下は玉座に座っていた。

五ヶ月で、顔が変わっていた。頬が削げ、目の下に隈がある。灰死病の対応で眠れていないのだろう。

「ベアトリクス。灰死病の治療に協力してもらいたい」

開口一番それだった。再会の挨拶もなければ、断罪への言及もない。

殿下らしい、と思った。合理的で、傲慢で、自分が何をしたか忘れたふりをする。

「治療法の文書は提供いたします」

私は背筋を伸ばしたまま答えた。

「辺境で灰死病の予防に成功した記録をまとめてございます。浄水、隔離、消毒の手順書です。本日中にお届けいたしましょう」

「文書ではなく、お前自身に治療をしてもらいたい」

「恐れ入りますが、私は辺境伯領の臣民でございます。帰還命令には法的な瑕疵がございます」

殿下の目が細くなった。

「法的瑕疵?」

「はい。私の断罪は、証人がミリアーナ殿お一人のみでした。王国法では断罪には証人二名以上が必要とされております。また、弁明の機会も実質的に与えられておりません。つまり——断罪そのものが手続き上不完全であり、それに基づく流刑も、帰還命令も、法的根拠が揺らいでおります」

宮廷にいた三年間で覚えた法令が、今こうして役に立つとは思わなかった。

殿下は無言だった。

筆頭大臣が咳払いをした。謁見の間の空気が張り詰めている。

「……文書は受け取ろう。だが、この件は終わっていない」

殿下はそう言って、私を下がらせた。

翌朝。

王都の宿で目を覚ますと、部屋の扉が叩かれた。

「ベアトリクス殿。お迎えに参りました」

聞き覚えのある声だった。

扉を開けると——ゼルギウス様が立っていた。

息が止まった。

「ゼルギウス、様——なぜ」

「閣下の命令だ」

短い。いつも通りだ。

その後ろから、辺境伯の大きな体が廊下の角から現れた。

「よう。元気そうだな」

「辺境伯閣下まで——」

「王都に来たのは観光ではないぞ。やることがある。来い」

問答無用だった。馬車に押し込まれ、連れていかれた先は——王立学術院。

王立学術院の院長室は、古い書物の匂いがした。

壁一面の本棚。窓から差し込む朝の光。机の向こうに座る白髪の老人——エーベルハルト院長は、丸い眼鏡の奥から辺境伯を見て微笑んだ。

「久しぶりだな、グレーフェンベルク」

「三十五年ぶりか、エーベルハルト」

「学院の寮で隣の部屋だった男が、辺境伯になるとは思わなかった」

「お前こそ。毎晩居眠りしていた男が院長とは」

二人は笑い合った。三十五年の空白を一瞬で埋める笑い方だった。

——あの夕食の席で辺境伯が漏らした呟きの正体は、これだったのか。

辺境伯がエーベルハルト院長に書類を手渡した。ゼルギウス様が横に立ち、補足を加える。

「再鑑定の申請です。根拠は三点」

ゼルギウス様の声は簡潔だった。

「第一に、断罪の法的瑕疵。証人はミリアーナ・ロート一名のみ。王国法の二名要件を満たしていません。弁明の機会も与えられていない」

「第二に、辺境から送付された匿名論文の著者がベアトリクス・フォン・ヘルダーリンであると判明しました。黒斑熱の治療理論は、闇属性の使い手には理論上作成不可能な内容です」

「第三に、現行の鑑定具は二百年前の設計であり、上位属性を正確に測定できない可能性が学術的に指摘されています。始祖鑑定石による再鑑定を申請します」

院長は書類に目を通し、眼鏡を直した。

「学術院設立勅令第三条。学術的根拠がある申請に対しては、王族の承認なく鑑定を実施できる」

辺境伯を見た。

「グレーフェンベルク。お前がここまでする娘か」

「ああ。わしの領地を救った娘だ」

院長は頷いた。

「許可する。始祖鑑定石を起動しよう」

学術院の地下。

石造りの階段を降りた先に、広い空間があった。天井が高い。壁に埋め込まれた魔石が青白い光を放っている。

部屋の中央に、台座があった。

台座の上に、拳大の透明な石が浮いている。

始祖鑑定石。

千年前に作られた、現存する唯一の高精度鑑定具。この石だけが、すべての魔力属性を正確に鑑定できるという。

「手をかざしてください」

院長の声に促されて、台座の前に立った。

心臓がうるさい。

手をかざした。

石が光った。

最初は淡い白。次に金色に変わる。あの——私の手から溢れる光と同じ、金色。

光が膨らんだ。部屋全体を照らす。まぶしくて目を細める。

光が収まった。

石の表面に、文字が浮かんでいた。古い文字だ。院長が読み上げる。

「上位治癒属性——《再生》」

静寂。

「闇属性の反応は——一切ありません」

脚から力が抜けそうになった。

闇じゃなかった。

——闇じゃ、なかった。

「再生……上位治癒……」

呟いた。声が震えていた。

あの枯れ木に咲いた花。あの子供たちの傷を塞いだ光。兵士の腹を治した金色の光。全部——闇ではなかった。最初から。

闇の魔女なんかじゃなかった。

最初から——

視界が滲んだ。泣かないと決めたのに。

背後で、かすかな音がした。

拳を握る音。

振り返りかけて——やめた。石の表面に浮かぶ金色の文字をもう一度見つめた。

だから気づかなかった。

ゼルギウス様が握りしめた拳から、爪が食い込んで血が滲んでいたことに。

王宮、大広間。

再鑑定結果の公式発表の場には、五ヶ月前と同じ顔ぶれが並んでいた。

レオンハルト殿下。筆頭大臣。貴族たち。

そして——ミリアーナ。

院長エーベルハルトが、再鑑定結果を読み上げた。

「王立学術院は、始祖鑑定石による再鑑定の結果、ベアトリクス・フォン・ヘルダーリンの魔力属性が『上位治癒属性《再生》』であることを公式に認定いたします。闇属性の反応は一切確認されませんでした」

広間がざわめいた。五ヶ月前と同じざわめき。でも意味が正反対だ。

院長が続けた。

「なお、上位治癒属性は光属性の上位互換に位置する古代属性であり、闇属性とは魔力構造が根本的に異なります。光の極致と闇——この二つは魔力構造の正反対に位置するものです。取り違えることは、熱と冷たさを間違えるようなもの。上位治癒属性を闇と感じることは、理論上不可能です」

広間が静まった。

全員の視線がミリアーナに向いた。

ミリアーナの顔から血の気が引いていた。唇が震えている。

「聖女ミリアーナ・ロートの証言『闇の魔力を感じた』は、学術的に成立し得ないものと判断されます。当学術院は、この証言が意図的な虚偽であった可能性を指摘し、聖女称号の再審査を進言いたします」

「違い、ます——」

ミリアーナが声を上げた。

「わたくしは——確かに、あの方の魔力に違和感を——」

「違和感を感じたことと、それを闇と断定したことは別の問題です」

院長の声は穏やかだったが、揺るがなかった。

「上位治癒属性が通常の治癒と異なることを感じ取った可能性はあります。しかしそれを『闇』と証言したことは、学術的根拠のない断定です。なぜ『闇』と断定したのか——その動機を問うのは、学術院ではなく司法の領分ですが」

ミリアーナの視線が泳いだ。レオンハルトを見た。縋るように。

殿下はミリアーナを見なかった。

大広間に、聖女称号剥奪の審議開始が宣告された。

ミリアーナの膝が折れた。崩れるように床に座り込む。

誰も手を差し伸べなかった。

——かわいそうだとは、思わなかった。

思えなかった。あの日、広間で一人で立っていたのは私だったから。

殿下がこちらに歩み寄ってきた。

何かを言おうとしている。口が開きかけた。

その間に——影が割り込んだ。

ゼルギウス様だった。

殿下とわたしの間に、壁のように立ちはだかっている。灰色の瞳が、殿下を見下ろしていた。

殿下の足が止まった。

広間の空気が凍る。

ゼルギウス様は何も言わなかった。ただ立っていた。

それだけで十分だった。