軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第8話 馬鹿か、俺は

「お世話になりました」

その言葉を言うのに、三日かかった。

勅令が届いてからの三日間、私はずっと考えていた。医務室で薬を調合しながら。花瓶の花を替えながら。ベッドの中で天井を見つめながら。

辺境法のことは知っている。

辺境伯閣下が拒否すれば、帰還命令は無効にできる。二ヶ月前のあの任命式の日に、閣下自身がそう教えてくれた。「ここではわしの法が通る」と。

でも。

王太子の正式な勅令を辺境伯が拒否すれば、どうなる。

交易の制限。軍事支援の停止。最悪、辺境伯領への討伐軍の派遣。辺境はただでさえ魔物の脅威と隣り合わせだ。王都との関係が悪化すれば、この領地の人々が危険にさらされる。

兵士たちが。村人たちが。子供たちが。

——私一人のために。

(……だめだ。巻き込めない)

三日目の朝、決めた。

ゼルギウス様は中庭で剣の手入れをしていた。

朝の光の中で、刃に油を塗る指先が淡々と動いている。私が近づくと、手を止めないまま視線だけを上げた。

「ゼルギウス様」

「ああ」

「お世話になりました」

手が止まった。

「……皆さんに、迷惑をかけたくないんです」

言葉を選んだ。辺境法のことは口にしない。辺境伯閣下に「なぜ法を使わないのか」と問われれば、答えに窮する。だから、閣下に会う前に出発したかった。

「辺境伯閣下が私のために王都と対立すれば、この領地に影響が出ます。それだけは——させたくありません」

ゼルギウス様は剣を鞘に収めた。

立ち上がる。私より頭一つ分高い。灰色の瞳が、まっすぐこちらを見ていた。

引き留めてほしい、とは思わなかった。

嘘だ。少しだけ思った。

「……お前が決めたなら」

それだけだった。

引き留めない。

この人はそういう人だ。他人の選択を奪わない。たとえそれが間違っていても。

——間違って、いるのかな。

「明朝、出ます」

「わかった」

短い言葉を交わして、私は中庭を離れた。

背中に視線を感じた。振り返らなかった。振り返ったら、足が止まってしまう。

翌朝。

荷物は少ない。辺境に来たときも手ぶらだったのだから、当然だ。着替えが二着。薬草の入った小さな鞄。治療に使う道具一式。それだけ。

厩舎で馬の準備をしようとして——足が止まった。

鐙の高さが、変わっている。

昨日まで兵士用の高さだったはずの鐙が、私の足にちょうど合う位置に調整されていた。完璧に。一分の狂いもなく。

水筒を手に取った。振ると、液体の音がする。蓋を開けて匂いを嗅いだ。薬草茶だ。私がいつも飲んでいる、月露草を少しだけ混ぜた薬草茶。

鞍袋を開けた。保存食が詰められている。干し肉と堅焼きパンと、小さな包み——中身は蜂蜜漬けの木の実だった。甘いものを。

誰がやったかなんて、聞くまでもない。

(……ずるい)

目の奥が熱くなった。堪えた。泣かないと決めたのだ。

馬に跨って、砦の門に向かう。

門の前に、人が集まっていた。

兵士たちだ。整列している。早朝の当直ではない者もいる。わざわざ起きてきたのだ。

そして——その前に、小さな影が三つ。

黒斑熱を治した村の子供たちだった。あの最初の男の子と、その妹と、隣の家の女の子。村から砦まで、こんな早朝に歩いてきたのだろう。

「先生!」

男の子が駆け寄ってきた。手に何かを握っている。

「これ。おまじない」

差し出されたのは、紐で結んだ小さな布袋だった。中に何かが入っている。振ると、からからと乾いた音がする。

「ママに教えてもらった。旅のお守り。持ってたら、きっとまた会えるって」

受け取った。

手のひらの中の、小さなお守り。

(泣くな。泣くな泣くな泣くな——)

「……ありがとう」

声が震えた。もう隠せなかった。

「きっとまた会えるわ」

嘘かもしれない。本当かもしれない。わからない。でもこの子に「さようなら」とは言えなかった。

顔を上げた。兵士たちが敬礼していた。

全員。

一人残らず。

闇の魔女と怯えた日から、五ヶ月。

今、彼らは敬礼で私を送り出している。

馬の手綱を握り直した。お守りを胸元にしまった。

門を出た。

振り返らなかった。

泣いていないと、自分に嘘をついた。

——ゼルギウス・ヴァルデンは、門に立たなかった。

中庭にも食堂にもいなかった。二階の窓から、あいつが門を出ていくのを見ていた。言葉は一つも出なかった。

馬が丘の向こうに消えてから、俺は医務室に入った。

花瓶の花が枯れかけていた。

今朝は新しい花を摘みに行けなかった。鐙を直して、水筒を用意して、鞍袋に保存食を詰めて——そんなことをしている間に、朝が来てしまった。

机の上に、紙の束が残されている。

治療マニュアル。あいつがこの五ヶ月間、一枚ずつ書き足していったものだ。兵士の外傷処置。黒斑熱の治療手順。薬草の煎じ方。灰死病の予防策。

最後のページを開いた。

小さな字で、一行だけ書かれていた。

『ゼルギウス様の背中の傷は順調に回復しています。あと少しで完治するはずです。よかった。』

——よかった。

その一言が、胸を抉った。

俺の傷を最後まで気にしていた。去る間際まで。治療マニュアルの最後のページに、それだけを書き残して。

拳を壁に打ちつけた。石壁に鈍い音が響いた。

「……馬鹿か、俺は」

声が震えた。壁についた拳の、骨が軋む。

何をしている。

何を、している。

あの女は——あいつは、辺境伯のために去ったのだ。自分のためではない。この領地を守るために。巻き込みたくないから。

そういう人間だ。自分を犠牲にして、他人を守ろうとする。きっと昔からそうだったのだろう。だから一人で立っていたのだ——あの断罪の日も、今日も。

また一人で行かせるのか。

また——守れないのか。三年前のように。

「追わんのか」

声がした。

振り返ると、医務室の入口に辺境伯が立っていた。

腕を組み、壁にもたれている。いつからいたのかわからない。

「閣下……」

「あの娘は、わしに迷惑をかけたくないから去ったそうだな」

俺は答えなかった。

「馬鹿な娘だ」

辺境伯が笑った。怒っているのではない。呆れてもいない。嬉しそうに——笑った。

「わしが誰に迷惑をかけられるかは、わしが決める」

壁から背を離した。俺の目を見た。

「追え。いや——わしが許す」

一拍の間。

「命じる。お前も来い。ベアトリクスの直属の上官はお前だ」

息が止まった。

「閣下、しかし——」

「王都にはわしも行く。辺境法で殴り込みだ」

辺境伯はからからと笑って、廊下に向かって怒鳴った。

「おい、馬を三頭用意しろ! 急ぎだ!」

動けなかった。

一秒。二秒。

三秒目に、走り出していた。厩舎に向かって。

枯れかけた花が、風に揺れた。