作品タイトル不明
第四十八話:逆算された未来
1983年、4月。
芝公園にある機械振興会館の一室で、日本のコンピュータ史を塗り替える「その時」は静かに訪れた。
会場を埋め尽くしたのは、名だたる国内メーカーの技術幹部たち。その視線の先には今川が立つ。
「……現在、我々の前には二つの道があります」
今川はOHPを切り替え、会場の空気を掌握するように語り始めた。
「一つは、各社が独自仕様を肥大化させ、海外製OSの後塵を拝する道。もう一つは、この『TRON』という共通の言語を手にし、日本から世界標準を提示する道です」
聴衆はまだ半信半疑だった。
「オープン」という概念すら一般化していない時代――
今川の描く構想は、理想論と切り捨てるには壮大すぎた。
だが、配布された薄い仕様書が、会場の空気を静かに変えていく。
「……今川先生、一つ伺いたい」
前列の技術者が、資料を軽く叩きながら言った。
「このアーキテクチャの後半――GUIの項目です。
確かに概念としては理解しますが、現状の8ビット機でウィンドウ処理など不可能です。リソースの少なさを御存じのはずだ。現場は、机上の空論にリソースを割く余裕はありません」
会場に、苦笑と同意の空気が広がる。
当時、日本では文字(CUI)こそが“実用”であり、
グラフィック表示は高価な大型機か、輸入ワークステーションの話だという認識が支配的だった。
しかし今川は、むしろそれを待っていたかのように微笑した。
「実用性、ですか」
彼はゆっくりと会場を見渡し、確信に満ちた声を置いた。
「皆さんが日々直面している『リアルタイム制御の遅延』。そして、将来的に必ず起こる『情報量の増大による操作性の破綻』。この仕様書には、それを“既存の安価なハード”で回避するための、極めて軽量な処理体系が書かれています」
「たとえばウィンドウの重ね合わせや切り替え。
従来なら数百バイトのテーブル管理と複雑なメモリコピーが必要でしたが、ここではビット演算による簡潔なフラグ管理と、イベント駆動型の極小ルーチンだけで実現します。 8ビット機の限られたRAMとCPUサイクルでも、画面のちらつきを抑えながら複数のウィンドウを扱える——『理論上の限界』を、構造だけで解決する設計です」
会場が静まった。
資料をめくる手が増え始める。
「……待て、このビット演算の分岐……理論上は確かに軽いが……」
「いや、これ……
演算パスをここまで削れば、うちの8ビット機でもウィンドウ操作らしきものは再現できるぞ……?」
「……しかしこれは前提条件が厳しすぎる。VRAM帯域が足りないはずだ、どこで帳尻を合わせてる?」
技術者達の低いざわめきが広がっていく。
懐疑が、ゆっくりと驚愕へ変わる瞬間だった。
「この設計……未来のハードを前提にしているというより、“そこへ至るまでの最短ルート”を逆算して書いている……?」
技術者たちは資料に目を釘付けにした。
今川は、会場へ静かに告げた。
「この仕様をどう読み取り、どう活かすかは皆さん次第です。ただ――日本が世界標準を作れる“窓”は、まだ閉じていません。‥‥我々が今ここで手を打つか否かで、十年後の日本の産業が変わるのです」
会場に、静かだが確かなざわめきが残った。
それは、半信半疑からわずかに希望へと色を変え始めた、日本の技術者たちの、かすかな鼓動のようにも聞こえた。