軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

10.次の休日を指折り数えて

告げられた言葉は、さすがに忘れない。

だからといって、毎日頬を赤くして机に向かっているわけでもない。

私はいつも通り、朝は出仕し、書類を受け取り、字を揃え、昼になれば食堂でトレーを持つ。

席も以前と同じ、壁際の長机の端。向かいにはフォレスト様。

違うのは、元婚約者の噂が出ても、あの日の会話が頭の片隅でちらつくくらいだ。

『シーラと付き合いたい』

食堂での告白に、私は「断るつもりは今のところない」と答えた。

嘘ではない。嬉しかったのも、本当だ。けれど、すぐに受け入れるとは言えなかった──受け入れてしまったら、期待してしまう。

逃げたつもりではないけれど、逃げているのかもしれない。

考える時間が欲しい、と自分で自分に言い訳しているくせに、もう答えは出ている気もする。

『好きだ。結婚したいくらいには』

ぐるぐるぐるぐる、考えが行ったり来たり、また巡る。

……でも、だって、と考えてしまう。

受け入れて、その先を期待してしまった後で、また選ばれなかったらと思うと怖い。

どうしても、自分なんかが幸せになれるわけがない、と決めつけている自分がいる。

その夜、寝台に入っても目が冴えたままだった。

仕事帰りの袖に残ったインクの匂いが、まだ鼻に残っている気がした。

考えるな、と言い聞かせても、頭の中では同じ言葉が何度も行ったり来たり。

──私は一度、婚約を解消されている。

泣いて縋っても、ラフェド様は、マリーナ様を選んだ。

美しい物語のヒロインを選んだ。私ではない。

だから、自分が選ばれる側に立つところを、うまく思い描けない。

数日が過ぎた。

その日の仕事は、だいたい片づいていた。

夕刻の鐘が鳴る前。

判決文の清書を重ね、端を揃えて紐で縛る。あとは書架に戻せば終わりだ。

「シーラ」

名前を呼ばれて顔を上げると、向かいの机からフォレスト様が立ち上がった。

「はい」

「少し、時間をもらっていいか」

頷くと、彼は机の引き出しから細長い封筒を取り出した。

王都セフィラの紋章と、王都大劇場の名が印刷されている。

「劇場の券だ。王宮経由で回ってきた枠のものだ」

表に書かれた演目の名を見て、手が止まった。

「……これ」

言葉が勝手に漏れる。

戦から戻った将軍と女官の恋物語。

原作小説は何度も読み返した。舞台化されると聞いたときも飛びつきたかったが、すぐ席が埋まり、諦めた演目だ。

「前に言っていただろう」

フォレスト様が、少しだけ目を細めた。

「『券はとても取れないから、小説を読みながら自分の頭の中で舞台にする』と」

言った覚えがある。

先々週の昼休み、食堂で。

「それで、王宮宛てに来ていた優待の中から、この公演の席を二つ押さえた」

「二つ」

「……都合が悪くなければ、今度の休日、一緒に行かないか」

そう言って、フォレスト様は封筒を私の前へ置いた。

目の前にあるのは、ずっと欲しかったものだ。

観たいと望んでも手が届かなかった席だ。

──数日前に結婚の話まで口にした相手が、それを何でもない顔で私の前へ置いている。

少しくらい考えてから返事をするべきなのかもしれない。

そう思う前に、口が動いていた。

「行きます」

自分でも驚くくらい、はっきりした声が出た。

早すぎたと気づいて、慌てて言い足す。

「い、いえ、あの……その劇、原作も持っていますし、一度でいいから舞台を見たいと思っていました。あの、お誘いいただき、嬉しいです」

言えば言うほど、欲に負けたみたいで恥ずかしい。

首まで赤くなっているだろうな、と自分でも分かる。

「よかった。休日の昼の部で、席は前のほうだ」

フォレスト様は、わずかに息を抜いたように見えた。

「でも、そんな良い席、私が座ってもいいのですか?」

「王宮の名で押さえられていた席だ。空けておくほうが問題だろう」

「……あ、それもそうですね、はい」

正論なので、反論できない。

「当日、劇場前で落ち合おう。聖堂院の鐘が三つ鳴る少し前でどうだ?」

「分かりました。遅れないように行きます」

そう答えると、封筒が正式に私の手の中に収まった。

紙の重み自体は、大したものではない。

それなのに、引き出しへしまうまでのあいだ、指先の感覚だけが落ち着かなかった。封筒の角をつまんだところばかり、いつまでも熱を持っている気がした。

机の上には、書架へ戻す前の束がまだ残っている。

廊下からは、他部署の人々が帰り支度をする気配も伝わってくる。

誰かが「明日は租税局へ」と言いながら通り過ぎ、別の誰かが鍵束を鳴らして笑った。

いつも通りの音なのに、今日は少し遠くで鳴っているように思えた。

心だけが先へ動き出しそうで、落ち着かない。

書架へ戻すはずの束を抱え直し、紐の結び目を指で確かめた。普段なら、こういう手順が気持ちを戻してくれる。

けれど今日は、紙の匂いの向こうに、受け取った封筒の角の感触がいつまでも残っていた。

劇場へ行く約束をしただけだ。

休日に観劇へ行く。

それだけのはずなのに……。

私は、次の休日までの日付を久しぶりに数えることになった。