作品タイトル不明
303.その名を、忘れて
霊舞祭が終わって、街はようやく静けさを取り戻していた。
あれほど賑やかだった太鼓や笛の音も、今は遠い記憶のように消えている。
闇に浮かぶ街灯の光だけが、祝祭の名残をそっと照らしていた。
ナギサが用意してくれた旅館の縁側で、湯上がりの夜風にあたっていると、近づいてくる気配があった。
「何をしているんですか?」
ルーナが濡れた髪をタオルで拭きながら、俺の隣に腰を下ろす。
「風にあたってただけだよ。少し、気持ちを落ち着けたくてな」
「そうでしたか。色々と激動でしたからね」
そう言ってルーナは、静かに息をついた。
予定とは大きく異なる展開だったが、キョクトウを取り戻すという目的は果たせた。
だが、国内にはまだ教団の残党が潜んでいるはずだ。
それをあぶり出す必要がある。
そして、それと並行して、ようやく明日からは不死鳥の社――術理の調査を始められる。
振り返れば、ここまで来られたのは本当にみんなのおかげだ。
俺一人では決してここまで来ることができなかった。
「ここまで、長かったようであっという間だったな」
「そうですね。つい数か月前はまだツトライルで探索者をやっていたというのに、ずいぶんと遠くまで来ましたね」
「特にこの一年間は濃密だったからな。本当に色々あった。大変な思いもたくさんしたけど、それ以上に多くの人の優しさに触れられた」
「私もです。オルンさんに救われたから、私は今ここに居ることができています。改めてですが、ありがとうございます」
「……いきなりだな。そんなことを言うなら、俺の方こそルーナが居てくれて助かった。〝あの日〟ティターニアが協力してくれたのは、ルーナが彼女と良い関係を築いてくれていたからだと思――」
そう言った瞬間、ルーナの手が止まった。
タオルを握る指がわずかに硬直しているのが、月明かりの下でもはっきりと分かった。
「……ルーナ?」
不思議そうに振り向くと、彼女はきょとんとした表情でこちらを見ていた。
まるで、言葉の意味が分からなかったかのように。
あるいは、知らない名前を聞いたかのように。
「あの、オルンさん……」
「……どう、した?」
知らず知らずのうちに声が震える。
ルーナはゆっくりと首を傾げた。
「――ティターニアって、 誰ですか(・・・・) ?」
聞こえた瞬間、頭の中で何かがゆっくりと崩れていく感覚があった。
まさか、そんなはずはない。
でも確かに今のルーナは、心の底から不思議そうに、その名前を口にしていた。
夏の風が、ひどく冷たく感じられた――。