作品タイトル不明
298.【sideフィリー】人形兵士
◇ ◇ ◇
キョクトウを後にしたフィリーは、海を挟んだ隣国――ルダイン連邦へと転移していた。
彼女は体中を巡る血の流れと共に、得体の知れない違和感が染み渡っていくのを感じている。
今にも身体が破裂しそうな力の奔流を、意識の全てで押し留めていた。
「はぁ……はぁ……っ……」
彼女は息も絶え絶えに、政府中枢庁舎の中を進む。
ふらつく足取りのまま最上階まで辿り着いたフィリーは、扉の前で一度足を止める。
ゆっくりと扉を開け、倒れこむように中へ踏み入る。
「……珍しい客人が来たの」
男の声音が響いた。
白髪に白い髭、背筋を伸ばした軍服姿の老人が執務机の前に立っている。
その名はグンナル・シュルテン。
ルダイン連邦の最高権力者にして、連邦議長の肩書きを持つ男。
だが、その裏には、もう一つの顔がある。
それが――【シクラメン教団:第二席】《雷帝》だ。
その対面にはもう一人、男が立っていた。
探索者ギルドの新たなグランドマスター、ソルダ。
どこにでもいそうな顔立ち。
印象に残らない、平均的な体格。
気を抜けば、その存在を脳が勝手に忘れてしまいそうになるほど、空気のような存在感。
それこそが、彼の存在意義そのものだった。
フィリーは、扉を閉めるとそのまま背中を預けて滑り落ちるように腰を下ろした。
肩で息をしながら、かろうじて声を絞り出す。
「……話をしていたところ、悪いわね……」
彼女の体から、じわりと涅い瘴気が漏れ出していた。
「フィリー」
グンナルが目を細めて問いかける。
「なぜお主がオベロンの魔力を取り込んでいる? 器があったはずだっただろう」
「……その器が、使い物にならなかったのよ」
フィリーは億劫そうに、どこか苦しげに答える。
「だから……わたくしが、やるしか、なかったの……」
「無茶なことをする」
グンナルがため息交じりに声を漏らす。
「オベロンから【認識改変】を授かっているとはいえ、無理をすれば破滅してしまうというのに」
その声色には、わずかな憂慮すら感じられた。
だが、フィリーの表情は冷ややかに崩れる。
「……そんな上っ面の心配はいらないわ」
フィリーは吐き捨てるように言う。
「わたくしはしばらく動けない。でも、役割は全うするから安心しなさい」
「そうか。なら良い」
グンナルは納得したように頷き、すぐに言葉を続ける。
「ソルダ」
「……はい」
「フィリーからオベロンの魔力を、吸い出しなさい」
「畏まりました」
ソルダがグンナルの指示にしがって、フィリーに歩み寄る。
そして、フィリーの前に膝をつき、その手をゆっくりと伸ばした。
ソルダの指先がフィリーの左肩に静かに触れる。
その瞬間、フィリーの身体から涅い靄がゆらりと立ち昇った。
フィリーの全身を蝕む魔力の奔流が、ソルダの腕へと逆流していった。
まるで毒を吸い上げるように、その黒い力が肩から胸へ、腹部へと這い上がっていく。
ソルダの顔色がみるみるうちに蒼白になり、唇が震え始める。
指先からは細かなひび割れが生じ、関節が軋むような音がした。
かと思えば、ソルダの身体が、音もなく崩れ始めた。
風に吹かれた砂の塔が崩れるように。
その身体は、あっという間に一粒の砂も残さず、空気に溶けるようにして消滅した。
「…………」
フィリーがそんな彼を無感情に眺めていた。
「……少し、楽になったわ」
フィリーが、息を吐きながら言う。
「悪かったわね、グンナル」
「気にしなくて良い。あれはクローン技術で作った人形兵士に過ぎんからの。替えはいくらでも用意できる」
グンナルが机の上に置かれた書類を見やりながら、淡々と答える。
「次のソルダも手配しよう。フィリーの元にも定期的にソルダを送る。しばらくは、オベロンの魔力を身体に馴染ませることに集中しなさい」
「……分かっているわ」
フィリーはゆっくりと立ち上がった。
よろけながらも姿勢を正し、扉に手を掛ける。
その背中越しに、言葉を落とす。
「そうそう。オルンは今、キョクトウに居るわ」
「……ほう?」
「十中八九、術理の調査を始めるのでしょうね」
グンナルは軽く目を細めると、皮肉めいた笑みを浮かべた。
「情報提供に感謝するよ」
そして、誰にも聞こえぬ声で呟いた。
「なるほど。やつはキョクトウか。フィリーに情報操作を頼めないのが面倒だが、大義名分としては充分。この程度の世論形成なら……」
グンナルが机の上に広げた地図に視線を落とす。
その視線の先にあったのは、極東の島国。
そこに静かに、しかし確実に、黒い影が忍び寄っていた。
次に血を流すのは、果たして誰か。
それは、まだ誰も知らない――。