作品タイトル不明
1 戻って来た夫の元カノ
夕暮れが迫るエントランスで、私はその光景を静かに見下ろしていた。
石床に膝をつき、みすぼらしい衣で泣き崩れる女。
腕の中には、小さな少女。
彼女はレリアーナ・(元)ローグ伯爵令嬢。
かつて、私の夫カミーユの婚約者だった女性。
四年前、恋人と駆け落ちして、すべてを捨てたはずだった。
それが、今まさに、夫の元に戻って来たのだ。
「ごめんなさいカミーユ。本当に後悔しているわ」
かつての気高さは、もうどこにもない。
それでも。
カミーユは迷わなかった。
私を一瞥すると、こう言った。
「メイベル、君の言った通り、レリアーナは戻って来た。私は彼女の力になるよ」
胸の奥が、かすかに軋む。
「どうぞ、お気の向くままに」
私は目を伏せ、答える。
いつも通り、
貴方の望み通りに。
カミーユは私を残し、彼女へ手を差し伸べた。
「可哀そうに、こんなに落ちぶれてしまって。ほら、立って。子どもも怯えているじゃないか」
「で、でも、奥様が……」
一瞬だけ、こちらに向けられる視線。
──挑発している。
夫は気付きもしない。
「妻は優しくて寛大な人だ。君は私の大切な客人。遠慮はいらない」
夫に、レリアーナは甘い微笑みを浮かべた。
「最上級のもてなしを! 決して失礼があってはならない!」
夫の命令に使用人たちが動き出す中、レリアーナは夫の手を取り立ち上がった。
その時、幼い女の子が呟いた。
「パパなの?」
無邪気な声が響く。
「ニーナ! ごめんなさいカミーユ。小さい子の勘違いよ。許して」
そう言いながらレリアーナは、ニーナの口を塞ぐ。
けれど、
「構わないよ。ここでは私は君のパパだ」
「パパ!」
抱きつくニーナを、カミーユは優しく抱き上げる。
「お部屋に、行こうか」
「うん」
……まるで、本当の親子のように。
軽い足取りで去っていく夫の背中。
その嬉しさを、隠しもしないで。
私は、ただ見送る。
何も言えずに。
部屋へ戻ると、執事のセバスが控えめに訪れた。
「奥様、今夜からの食事はお部屋でお召し上がりください。それから『部屋からは出ないように』との、若旦那様からのご命令です」
「なぜ?」
「レリアーナ様が悲しまれるからだそうで……申し訳ございません」
胸の奥が、鉛のように重く沈む。
「そう、部屋で大人しくしているわ」
セバスは深く頭を下げて去っていった。
……分かっている。
レリアーナこそ、夫が命を懸けて愛した女性なのだから。
四年前のことだ。
レリアーナの裏切りに絶望したカミーユは、庭園でナイフを手に命を絶とうとしていた。
それを見つけたのは、偶然訪れていた私と、彼の妹セシリー。
止めに入った私は、腕とこめかみに深い傷を負った。
──その責任を取る形でカミーユは、私の婚約者になった。
金髪碧眼の、美しく気高い人。
柔らかな物腰の奥に、繊細な心を抱えたセシリーの兄。
そんな彼に密かに憧れていた。
けれど私は、 粟(あわ) 色の髪の平凡な伯爵家の次女。
妻になど、なりたいと思ったことはなかった。
なのに。
父の命令と、セシリーの願い。
それに押されるようにして、この婚約を受け入れた。
──案の定、彼の心はさらに壊れていった。
生気を失った彼の傍で、私はただ静かに寄り添い、見守り、世話を続けた。
そして一年後、私たちは結婚した。
初夜。
彼は無表情のまま言った。
『やはり君を妻には出来ない。補償はするから、いつでも離婚してくれて構わない』
驚きはしなかった。分かっていたことだから。
『貴方が永遠に愛するのはレリアーナ様ですものね。いいですよ。これからは夫婦ではなく主従の関係で暮らしましょう。ただ、私が思うのに、いつかレリアーナ様は貴方の元に戻ってきます』
そう言うと、彼は初めて、まっすぐに私を見た。
『どうしてそう思うんだ?』
『駆け落ちした夫婦など、破局が見えています。それが裕福な貴族であればあるほど、平民の暮らしなど耐えられないでしょう』
──これは、義妹セシリーと何度も話したこと。
レリアーナは天使のように振る舞っていたけれど、本当は虚栄心が強く、思い通りにいかないと気が済まない人だった。
侯爵夫人の座を捨てたのも、愛ではなく──うっかり恋人の子を身籠ってしまい、逃げ場を求めただけ。
『その時、今の貴方の姿を見てレリアーナ様はどう思うでしょうか? 実家に捨てられ平民に落とされ、頼れるのは貴方しかいないのに』
確信があった。
そしてその時が、私とカミーユの分岐点になるだろうと。
『レリアーナが……戻ってくる……』
そう呟いて、彼は部屋を出て行った。
それ以来、私たちは同じ夜を過ごしていない。
それでも時間は流れた。
カミーユは少しずつ回復し、今では薬も必要としない。
夫が、かつての姿を取り戻した時。
──レリアーナは帰ってきた。
予想通りに。