軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第5話 暖炉の薪

ディートリヒの領地の市場は、朝から活気に満ちていた──だが帳簿を開けば、その活気を支える仕組みが危ういことは一目で分かった。

子爵領に滞在して、二週間が経つ。

来客用の別邸を借り、日中は執務室で帳簿と書類に埋もれる暮らしが続いている。父が手配してくれたランベルト家の護衛騎士が一名、別邸の入口に控えている以外は、侯爵家にいた頃とさほど変わらない。帳簿を開いて、数字を追って、人に会って、また帳簿に戻る。

変わったのは、その数字を見る人間の反応だった。

「──ランベルト嬢。この東街道の通行税の試算ですが」

家臣の一人が書類を差し出した。四十過ぎの文官で、最初の会議では私をほとんど見ようとしなかった男だ。離縁した女に領地の帳簿を触らせることへの不満が、態度に出ていた。

その男が、今は書類を持って私のところに来る。

「拝見します」

数字を追った。計算は合っている。だが前提が甘い。

「通行税の税率は妥当ですが、通行量の見込みが高すぎます。現在の街道の状態では大型の荷馬車が通れません。道幅の拡張か、少なくとも轍の補修を先に行わないと、この通行量には届きません」

「……なぜ、それがお分かりに」

「三日前に市場を視察した帰りに、東街道を馬車で通りました。車軸が二度、溝に嵌まりました」

文官が黙った。反論の余地がない顔をしている。

その後ろで、ディートリヒが腕を組んで立っていた。

朝の会議が始まる前、私は再構築した帳簿の説明をしていた。商会ごとの取引履歴を分類し直し、税の項目を細分化し、交易路ごとの収支を可視化した。侯爵家で六年かけて身に付けた方法を、そのまま適用しただけだ。

ディートリヒは帳簿を見つめ、数字の列を指で辿り、そして呟いた。

「これを、一人でやっていたのか」

「侯爵家では当然のことでしたので」

答えた瞬間、ディートリヒの目が私を見た。

「当然ではない」

静かな声だった。否定というより、訂正に近い響き。間違った報告を正す将校のような、淡々とした確信。

「これだけの仕事を一人で担って、それが当然だと思わされていたのなら──当然ではない」

言葉が、刺さった。

刺さった、と思った瞬間に、胸の奥で何かが軋んだ。あの音だ。錆びた蝶番が動く音。

(──やめなさい。仕事の話をしているだけだ)

視線を帳簿に戻した。

「ありがとうございます。では、次の項目に移ります」

声は平坦だった。六年間の訓練が、こういうときだけは本当に役に立つ。

夜が更けていた。

別邸の書斎で帳簿を広げたまま、気がつくと蝋燭が半分まで溶けている。窓の外は暗い。虫の声が遠くに聞こえる。

暖炉の火が小さくなっていた。三月の夜はまだ冷える。薪を足さなければ、と思ったが、立ち上がるのが億劫だった。あと少しだけ。この商会への提案書を書き上げたら。

そう思って数字を追っていると、扉が鳴った。

控えめな、二度の叩き方。使用人かと思って「どうぞ」と答えた。

入ってきたのは、ディートリヒだった。

上着を羽織っただけの軽装。片手に薪を二本抱えている。

私が何か言う前に、ディートリヒは暖炉の前に膝をつき、火の中に薪を足した。慣れた手つきで灰を掻き、新しい薪に火が移るのを待つ。

炎が大きくなった。ぱちん、と薪が爆ぜる音。温もりが足元から広がってくる。

ディートリヒが立ち上がった。

「冷えるだろう」

それだけ言って、踵を返した。

「あ──」

呼び止めようとして、何を言えばいいかわからなかった。ありがとうございます、で済む話だ。なのに、口が動かない。

ディートリヒの背中が扉に向かう。広い背中だ。上着の下に見える肩は、軍人のそれだった。

「……ありがとうございます」

ようやく声が出たのは、ディートリヒが扉に手をかけた瞬間だった。

振り返らず、小さく頷いて、出ていった。

扉が閉まる。

暖炉の火が、ぱちぱちと鳴っている。

部屋が暖かい。

(……使用人に頼めばいいのに)

そう思った。領主が自ら来客の別邸まで薪を運ぶ必要はない。夜番の使用人を呼べば済む話だ。

(仕事の相手に対する配慮だ。この人は領主として、領地に滞在する者の世話を気にかけているだけだ。それ以上の意味はない)

──打ち消した。

打ち消して、帳簿に目を戻した。

数字を追う。追いながら、別のことを考えている自分に気づいた。

侯爵家で、私が夜遅くまで帳簿に向かっていたことを、夫は知っていただろうか。知らなかっただろう。別棟の私室と執務室は離れている。蝋燭の灯りが何時に消えるか、気にかけたことなど一度もなかったはずだ。

六年間。

寒い夜に暖炉の火が落ちても、薪を足しに来る人はいなかった。

(──この人は、違う)

考えて、すぐに打ち消した。

(また勘違いかもしれない。六年前もそうだった。レオンハルトの礼節を愛情だと信じて、六年間騙されていたのは自分だ。優しくされたからといって、それが自分だけに向けられたものだと思い込むのは──)

帳簿の文字が滲んだ。

目を擦った。疲れているだけだ。

薪が爆ぜる。暖かい。それだけで十分だ。意味など、考えなくていい。

提案書の続きを書いた。インクが乾くまで、暖炉の火を見ないようにした。

南方商会の事務所は、王都の商業区の裏通りにあった。

俺がこの場所を訪れるのは初めてだった。そもそも商会との交渉は、全て──全てだ──妻が一人で担っていた。窓口の名前すら、引き継ぎ書を見るまで知らなかった。

番頭のグスタフという男が応接に出てきた。恰幅のいい中年で、商人特有の人当たりの良い笑みを浮かべていた。その笑みが、俺の顔を見た瞬間に固まった。

「ヴァルトシュタイン侯爵様が直々に……これは、何かございましたか」

「交易契約の更新について話がしたい」

「更新、でございますか。それでしたら、侯爵夫人様を通していただければ──」

「妻は……もう、いない」

グスタフの表情が変わった。

商人の笑みが消え、値踏みするような目に変わった。計算している。この男が──侯爵が──妻なしで契約の何を語れるのか、と。

「左様でございますか。それは……それは、ご事情がおありとは存じますが、この契約は侯爵夫人様との信頼関係の上に成り立っておりまして。夫人様のご確認なしに更新の手続きを進めることは、当方としてはいたしかねます」

「俺は当主だ。侯爵の名において契約を更新する権限がある」

「権限の問題ではございません、侯爵様」

グスタフの声が、一段低くなった。

「取引とは信頼でございます。我々が信頼を置いていたのは、侯爵家の御名ではなく──失礼ながら、侯爵夫人様のお人柄と、ご手腕に対してでございました」

俺は何も言えなかった。

信頼。

帳簿の数字の裏に、妻の顔があった。妻の名前があった。俺はそれを「報告は確認した」の一言で済ませていた。

番頭が頭を下げた。丁寧だが、明確な拒絶だった。

「夫人様がお戻りになるか、あるいは夫人様に代わる信頼のおける方をご紹介いただけるのであれば、改めてお話をお伺いいたします」

事務所を出た。

春の風が吹いていた。王都の通りを馬車が行き交っている。

三月。契約更新の期限は今月末だ。帳簿にそう書いてあった。あの引き継ぎ書の、小さな文字で。南方商会・契約更新:三月。

──あの文字を書いたのも、妻の手だった。