作品タイトル不明
第2話 三日と、六年
帳簿の背表紙に触れた指先が、六年分の重みを覚えていた。
離縁を申し出た翌日から、私は自室にこもって荷造りを始めた。
侍女のマリアが手伝おうとするのを、帳簿だけは断った。この数字の羅列の意味がわかるのは、私だけだ。どこまでが侯爵家の公的記録で、どこからが私個人の覚書なのか。その境目を知る人間は、この屋敷には他にいない。
「奥様、お茶をお持ちしました」
「ありがとう、マリア。そこに置いて」
マリアは盆を置きながら、机の上に積み上がった帳簿と書類の山をちらりと見た。何も言わなかったけれど、その目が少し潤んでいるのは気づいていた。
──泣かないで。泣かれると、私まで揺らぐ。
視線を手元に戻す。
南方商会との交易路の契約書。これは三年前に私が開拓した。当時、商会の番頭は女との取引を渋ったが、こちらの提示した税の減免案と中継地の整備計画を見て態度を変えた。以来、契約更新は毎年三月。窓口は私。番頭の妻の好む菓子の種類まで、私は覚えている。
そういうことは、引き継ぎ書には書けない。
東の村落の水路改修の記録。税制改革の経緯書。領民の陳情を整理した台帳。社交で築いた他領夫人との書簡の控え。
机の上に積み上がっていくそれらを見ながら、ふと思った。
(六年間の私の人生が、全部ここにある)
衣装より多い。宝飾品より多い。嫁入り支度の何倍もの紙の束が、この部屋を埋めている。
引き継ぎ書を作ろう、と決めた。義務ではない。法的には、公的な税務帳簿を残せばそれで済む。けれど、使用人たちが困るのは本意ではない。ヘルマンが途方に暮れる顔を想像すると、書かずにはいられなかった。
ペンを取り、白紙に向かう。
──何から書けばいい。
商会の名前。担当者の性格。交渉の癖。支払いの好む通貨。中継地の管理人の息子が来年から跡を継ぐこと。東の村の村長が腰を悪くしていて、代わりに娘が実務を仕切っていること。
書き始めたら、止まらなかった。
一つの契約の裏に、十の人間関係がある。一つの数字の裏に、三度の交渉と二度の失敗がある。帳簿の行間に詰まっているものを全部書き出そうとしたら、引き継ぎ書は帳簿より分厚くなるだろう。
──無理だ。
ペンを置いた。全部は書けない。要点だけを、できるだけ丁寧に。それが私にできる最後の仕事だ。
◇
ペンを動かしながら、三週間前のことを思い出していた。
ディートリヒ・ブルクハルト子爵がこの屋敷に来たのは、二月の終わりだった。
剣の稽古で右肩を痛めたと聞いた。騎士団時代の同期であるレオンハルトが療養先に屋敷を提供した、というのが表向きの経緯だ。実際、夫は親友には優しかった。客間の準備を指示し、治癒師を手配し、夕食には好みの葡萄酒まで用意させた。
(……私の好みの茶を聞かれたことは、一度もなかったけれど)
逗留の初日。
私は客間に茶を運んだ。侍女に任せてもよかったが、夫の大切な客人だ。粗相があってはいけない。それだけの理由だった。
客間の扉を開けると、ディートリヒ子爵は窓際に立っていた。右腕を布で吊り、左手で窓枠に寄りかかっている。振り向いた横顔は、社交の場で何度か見た記憶がある。夫の隣に立っていた、寡黙で背の高い軍人。それ以上の印象はなかった。
「お茶をお持ちしました」
「ああ、ありがとう」
卓に茶器を並べ、注ぐ。湯気が立ち上り、薬草と蜂蜜の香りが広がった。冬の終わりに体を温める、私が一番好きな配合だ。
子爵は片手で杯を取り、一口飲んだ。
「──美味い」
短い言葉だった。飾りのない、率直な声。
ただそれだけのことだった。
なのに、胸の奥で何かがきしんだ。錆びた蝶番に油を差したときのような、小さな軋み。六年間、閉じたままだった扉が、ほんの少しだけ動いた気がした。
「お口に合いましたなら、良かった」
そう返して、私は客間を出た。廊下を歩きながら、自分の心臓が少し速くなっていることに気づいた。
──茶を褒められただけだ。何を動揺しているの。
自分を叱って、忘れることにした。
◇
逗留の二日目。
午後、私が庭の手入れをしていると、子爵が散歩に出てきた。右腕を吊ったまま、左手を背に回して、ゆっくりと歩いている。
「見事だな」
花壇の前で足を止め、子爵はそう言った。
「この庭を手入れしているのは?」
「私です」
「侯爵夫人が自ら?」
「庭師もおりますが、品種の選定と配置は私が。趣味のようなものです」
子爵は花壇をじっと見ていた。軍人の目で花を見る人を、私は初めて見た。戦術地図を読むように、配置と色の組み合わせを一つずつ確認している。
「ここの紫と白の並びがいい。計算されている」
──この人は、見ている。
花ではなく、花を植えた人間の意図を。
「ありがとうございます」
声が上ずりそうになるのを、水遣りの動作で誤魔化した。
◇
二日目の夕食。
食卓には夫と子爵と私の三人が着いた。いつもなら、夫と私の食事は沈黙で終わる。報告事項があれば食後に書面で出す。それがこの家の作法だった。
けれどその日は客人がいた。
夫と子爵は騎士団時代の話をしていた。レオンハルトは親友の前では少しだけ口数が増える。それでも会話の中心は子爵の方で、夫は相槌と短い返答が多かった。
話題が途切れた瞬間、子爵が私に視線を向けた。
「侯爵夫人、庭の花——あの紫の花は何という品種ですか」
「ラヴェンダル・ノクターンと申します。この地方の在来種を元に、私が配合を変えたものです」
「配合を?」
「はい。花弁の色を深くするために、南方の品種と掛け合わせまして。三年かかりましたが、ようやく安定して咲くようになりました」
子爵の目が、少し大きくなった。
「三年」
「ええ。最初の二年は失敗続きで」
「それは──」
子爵は笑った。
口角を持ち上げる程度の、控えめな笑い方だった。けれど目元に皺が寄って、声に温度があった。社交の笑みとは違う。面白い話を聞いたときの、あの顔。
「──すごいな。三年か」
ただ、それだけ。
夫は葡萄酒の杯を傾けたまま、こちらを見ていなかった。
◇
三日目の朝。
子爵が発つ日だった。
玄関で馬車を待つ子爵に、私は形式通りの挨拶をした。ご養生ください。またのお越しをお待ちしております。侯爵夫人として、完璧な言葉を並べた。
子爵は短く頷いて、馬車に乗り込んだ。
馬車が門を出ていく。車輪の音が遠ざかる。
その音を聞きながら、私は自分の胸の中に、あってはならない感情を見つけた。
──行かないでほしい。
(……何を考えている)
足元が揺れた。目眩ではない。六年間、自分の足で踏み固めてきた地面が、突然柔らかくなった感覚だった。
この人の妻は、ここにいる。この屋敷の主人の妻が、その親友に、行かないでほしいと思っている。
これは恋だ。
そして──不貞の感情だ。
あの日から、私は法典を調べ始めた。偶然ではない。この感情に気づいた日に、離縁の要件を確認した。三年以上の実質的別居。寝室の不共有。六年間、条件は満たされ続けていた。
不貞を犯す前に、この結婚を終わらせる。
それだけが、私に残された誠実さだった。
◇
──回想が途切れた。
ペンのインクが乾いている。どれほどの間、手が止まっていたのだろう。
引き継ぎ書に目を落とす。南方商会の契約更新が三月であること。担当の番頭の名前。それだけ書いて、止まっていた。
書かなければ。
ペンにインクを付け直し、続きに取りかかる。東の村落の水路の件。税の申告手順。季節ごとの社交の段取り。
──全部、私の頭の中にしかないことだ。
扉を叩く音がした。
「奥様、お手紙が届いております」
マリアが銀の盆に載せた封書を差し出す。
表書きを見て、指先が止まった。
簡素な封蝋。飾り気のない筆跡。ブルクハルト子爵家の紋章。
封を切った。
中には、一枚の紙。
『ご健勝をお祈りする。──ディートリヒ』
それだけだった。
挨拶も、近況も、用件もない。ただ一行。あの人らしい、短い言葉。
──けれど。
封筒の中に、もう一つ、何かが入っていた。
指先でそっと取り出す。
押し花が一輪。
紫と白の花弁。
私の庭に咲いていた、ラヴェンダル・ノクターン。
(……この花は)
あの三日間の二日目に、子爵が「見事だ」と言った花壇の花だ。散歩のとき、一輪摘んで持ち帰っていたのだろうか。帰還後にそれを押し花にして、手紙に挟んだのだろうか。
きっと偶然だ。たまたま手元にあっただけだろう。
そう思うことにした。
──そう思うことにしたのに、押し花を見つめる時間が、少し長すぎた。
「……ありがとう」
声に出したのは、自分でも思いがけなかった。
マリアが不思議そうな顔をしている。誰に言ったのか、と聞きたげな目。
答えなかった。
押し花を、帳簿と帳簿の間に挟んだ。
引き継ぎ書ではない方の──持ち出す荷物の中に。