作品タイトル不明
番外編【海水浴】2
その日の夜、寝室に入ってきたライアスは、シンシアが持っているカタログを隣に座って見た。
「——海、ですか」
「ええ、どうですか?」
ライアスはシンシアの提案に、少し戸惑うような表情を見せた。
数年前、マリーヴェルが大騒ぎしたのが印象に残っているのだろう。二人の間でも海はないかな、という意見でなんとなくまとまっていた。
「ソフィアがね、海に行ってみたいんですって」
シンシアはカタログを眺めながら、そう言った。カタログと言っても、有能な使用人が有名な観光地をまとめてくれた報告書のようなものではあるのだが。見ているだけで楽しい。
誰の仕業か、海の近くの観光地ばかりになって、他が見当たらない。シンシアは昼の事を思い出してふっと笑った。
談話室を訪れるなり、子供達は海がいいと言って来た。
エイダンがソフィアの背後に立っている。じっとエイダンを見れば、エイダンは何食わぬ顔をアルロに向けた。
「アルロも、行きたいんだよね?」
「は、はい」
全く、随分とずる賢くなっちゃって。——いや、そういえばもともとエイダンにはこういうところがある。いつもバレバレなんだけど、本人は分かっているのかどうなのか。
「マリーは?海でいいって言ってるの?」
「もちろん!アルロが行くなら行きたいって」
「まあ、そうなの」
マリーヴェルのアルロ好きも相当なようだ。あんなに嫌っていた海に行ってもいいと思えるだなんて。
その変化に驚きつつも、いい変化だなと思う。
それに、アルロが珍しく行きたいと——言わされているのかもしれないが言ってくれたのだから、これはもう行くしかないとシンシアは思った。
「——海は、少し準備がいりますね」
ライアスはシンシアからカタログを受け取って、ぱらぱらとめくった。次々にめくるのは、どこも候補としてはいまいちなんだろう。顔を見れば何となくわかる。
「どこも楽しそうだけど。気掛かりが多いですか?」
「ええ……ここは外国に近すぎます。こっちは、あまり治安が……」
ぶつぶつと言ってテーブルに置いていく。シンシアはどんどん積みあがるカタログを見た。
このままでは行くまでに随分と時間がかかりそうだ。
「今回は私も泳ごうかしら」
「えっ……!?」
ライアスが手を止めた。
「そんなに驚く?」
「シンシア……泳げるのですか」
泳いだことはない、今世では。王侯貴族の女性は普通泳がないものなので。
でも前世の記憶のある今——泳ぐのは嫌いじゃない。むしろ、しばらく泳いでなかったので久しぶりに泳ぎたいと思う。
「できる気がするのよね」
軽い調子で言ったのに、ライアスは絶句、という様子で固まっている。
「ソフィアを産んでからちょっと体型も気になるし。この機会にしっかり運動しないとね」
「そ、それは……それですと、随分と、話が……変わってきますね」
「え、何が?私が海に入るかどうかで?」
警備体制だろうか。
ライアスは難しい顔をして考え込んでいた。
「入念に準備が必要です。2……いえ、3ヶ月ほど頂ければ——」
「冬になるわよ」
何言ってるんだこの人は。
シンシアの指摘も耳に入っていないようだ。
やれやれ、と思ってシンシアはライアスの手を取った。そのまま、自分の腰のあたりにその大きな手を運んで、ぴたりとくっつける。
「シンシア……?」
「どうです?ここのお肉がつまめるようになっちゃって」
「は……」
ライアスの手ごと、お腹の肉をつまむように動かす。
「ほら、どうですか」
確かに、エイダンを産んだ直後の、あの消えてしまいそうなほど痩せ細っていた時に比べたらシンシアにはしっかりと肉がついた。それでも、もともと華奢でか弱い印象のシンシアだから、ようやく健康的な体型になったかなと言ったくらいだ。筋肉がないからお腹の肉は摘める。
その、ふっくらとして柔らかく温かな感触を揉まされると——ライアスは頭の中が真っ白になった。
「シ、シン、シア……その」
シンシアは楽しそうに笑って、片手はお腹に当てたまま、もう片方の手をライアスの肩に回した。
「でも、そうですね。生まれてから泳いだことがないから、溺れてしまわないか心配?」
ライアスが固まったままでいるから、シンシアは更に調子に乗って、ついには膝に乗り上げる。そのまま向かい合って、両手をライアスの首に回した。そうするとライアスの耳元に顔がくる。
「せっかくみんなが行く気になっているんだもの。どうにかなりませんか?」
「しかし、海は危険がいっぱいですから……」
ライアスの声が掠れている。もう一押しだ。シンシアはぎゅっとその手に力を込めた。
「——ね、危険だというなら、貴方がこうして、海の中でしっかり私を抱いておいてください。一緒に海の中で、泳ぎ方も教えて……ほら、楽しそうでしょう?」
「ぐ……」
何か、呻き声が聞こえた。
「あ、水着を用意しなくちゃね。日に焼けると真っ赤になっちゃうから、オイルもしっかり塗って……届かないところは、ライアスが塗っていただけますか?」
頼りにしているから——という意味を込めて、シンシアはライアスの鎖骨あたりにすりすりと頬擦りをする。いつもならこの辺りで、わかりました……という声が聞こえてくるのに。今日はそれもなく黙ったままだ。
この手はもう使えなくなったのかしら。そう思って返事をしないライアスの方を見て——シンシアはぎょっとした。
「ライアス、は、鼻血……!!」
真っ赤な顔でのぼせたように鼻血を出していた。
そんなこともあったものの、シンシアの説得(?)の甲斐あってか、なんとライアスは十日程度で準備を済ませてしまった。
心配事は全て片付いたのだろうか。
「どこの海にしたんですか?」
「ハルジーン海岸です」
「あら?聞いたことのある場所ね」
それは王家直轄領の一つだった。シンシアは行った事はないが、別荘地があるというのは知っている。
「買い取りました」
ライアスがさらりとそんなことを言うものだから、今度はシンシアが絶句する番だった。
「なんですって?」
「程よい海辺の領地がありませんでしたので」
「い、いくらで……」
「去年の予算で余ったお金がありましたので」
そう、ペンシルニアは去年、非常に豊作だった上に、若い商会長がこれまた有能で。財政が非常に潤っている。
「陛下が、王都の水路を大規模修繕したいのに予算が足りないと言っていたので、使っていない領地を買いましょうかと申し出たところ、快く」
それにしても、王家直轄領を売るときはそれぞれ家臣と合議を重ね——それなりの手順と期間が必要なはずだが。何かと裏の手を使ったのだろう。聞かない方がいい気がしたので、シンシアもそれ以上は聞かなかった。
「プライベートビーチにした方が守りやすいので」
「じゃあ、護衛の人選も済んだのね」
「まあ、そうですね………この度は王国騎士が同行します」
「王国騎士……?なんでまた」
「表向きは、騎士団間の交流ということですが……ペンシルニアには、女性騎士が少ないので」
実は、いないわけではない、女性騎士。ただ、泥臭いペンシルニアの剣術は、どうしても女性には不向きだ。
「それで、女性王国騎士を」
「ビーチ周辺は男子禁制にしようかと」
そんな。無意味な。
とは思ったが、色々と考えてその他の警備や宿泊箇所、諸々整えてくれているライアスに何も言えなかった。
とにかく、家族旅行で海に行ける。
今年の夏は楽しくなりそうだ、とシンシアは心を躍らせた。