作品タイトル不明
25.
マリーヴェルはその日の夜、両親の寝室を訪れた。
「お父様、お母様・・・」
マリーヴェルがいつもより暗い表情なので、二人は顔を見合わせた。
忙しくて最近は食事も別だったから、こうしてしっかり向き合うのは久しぶりだ。
「どうしたの?」
いつもの優しい声に、マリーヴェルはますます俯いてしまった。
シンシアはそんなマリーヴェルをソファに座らせ、その横で肩を抱いた。ライアスがその向かいに座る。
「何かあった?」
「ううん。——アルロの頬ね、お兄様が治してくれてね」
「まあ。そうなの」
エイダンは治療は滅多にしない。騎士団で訓練していると傷も絶えないが、シンシアの知る限り、エイダンが練習以外で治療をしたのはアルロが初めてだ。
「私・・・何にもできないから」
シンシアは肩を抱いたままで、またライアスと目を合わせた。
「マリー・・・?」
「黙ってて、ごめんなさい。たくさん心配かけて、ごめんなさい」
謝りに来たのか、とシンシアは思った。
そういえば、忙しくてマリーヴェルとちゃんと話ができていなかった。
「私。言うべきだって、わかってたんだけど・・・アルロの事。言ったら、アルロと一緒にいられなくなるかもしれないって、思って・・・」
「ええ」
「あんなことになったら、私、何もできないでいるのに。何の力もないのに、私のせいで・・・」
「闇の魔力からこんなことになるなんていうのは、誰も予測できなかったわ——」
マリーヴェルは首を振った。
「アルロがいなくなって、気づいたの。黙ってるように言ったのは、アルロのためじゃなかった。自分が、アルロを側に置いておきたくて・・・。そしたら結局、アルロもとても危なかった。——今は、後悔しかないの」
シンシアはマリーヴェルを抱きしめた。
闇の魔力の事を調べていたことは、当然だがマリーヴェルは知らない。
今回の事で一番ショックを受けたのは、マリーヴェルだったかもしれない。
襲撃があった時のマリーヴェルの硬い表情を思い出す。どれほど恐ろしかっただろう。
自分の無力さを悔しく思うのはシンシアだって同じだ。夫と息子を送り出して、無事を祈り、待つことしかできなかった。その上、子供たちを抱きしめてやることすらしていない。
子供ながらにマリーヴェルが感じた恐怖や不安を、ちゃんと気にしてやれただろうか。
「でも、マリー。貴方は立派だったわよ?ペンシルニアの公女として、ちゃんと家族を送り出したでしょう?」
「・・・・・・・」
「貴方はちゃんとやれていたわ」
マリーヴェルはぐっと耐えるような顔をした。それでも堪えきれず、涙が滲む。
「ちっともできてないわ。光の力がないから救護所も手伝えない、私にお兄様みたいな力があれば戦えるのに、それもできない。お荷物だから、じっとして、迷惑かけないようにするしかできない」
「そんな事ないわ。マリー。愛する家族を送り出すという事が、どれ程難しい事か」
マリーヴェルは、ソフィアとは違い、危険をわかっていた。それでもペンシルニアに属する者は、有事の際に身を賭して国のために戦うと、ずっと言い聞かされてきたから。
「怖かったわね。——でも、ご武運を、って。言えたのよね」
さらさらと流れるマリーヴェルの髪を撫でながら、シンシアはゆっくりと念を押すように言った。
「偉かったわ、マリー」
「う・・・うぅ・・・」
マリーヴェルはほとんど声を出さずに涙を流した。
シンシアはマリーヴェルが落ち着くまで長い間抱きしめていた。
マリーヴェルを部屋に送って戻って来たシンシアは、部屋に入るなりライアスに抱きとめられた。
「——大丈夫ですか」
「え・・・?」
何がだろう、と思ったらライアスが気遣わしげな声で言った。
「貴方も、つらそうな顔をしていましたから」
ライアスにそう言われて、シンシアはその胸に頭をもたれ掛けた。
しばらくそのまま黙って抱きしめ合う。
「——無事でよかった」
目を閉じれば、あの時の恐怖に今でも身が竦む。
ワイバーンを全て打ち取ったという知らせで安堵したのに、ほぼ同時に駆け込んできた知らせは、更に多数のワイバーンの群れが押し寄せてきているというものだった。
既に救護所には怪我人があふれており、その時は本当に絶望を覚えた。
泣き言を言う暇もないほど緊迫した状況で、ライアスの事もエイダンの事も考える余裕もなかった。いや、考えないようにしていた。きっと考えていたら一歩も動けなくなっていただろう。
「マリーヴェルとソフィアが王宮へ避難すると聞いた時・・・気持ちが軽くなったんです」
気掛かりを一つ、託してしまえると思った。これで救護所やペンシルニアを守る事に集中できると思ってしまった。
不甲斐ない。その後も仕事に追われて、気が付けばいつもの生活に戻って、ほっとして今に至る。
あの気の強いマリーヴェルが、あそこまで自信を無くしてしまっているのに気遣ってやれなかった。エイダンもソフィアも、その心の内を考えてやれていたか、自信がない。
ライアスはシンシアを抱き上げた。そのままベッドまで運び、座って膝に乗せる。
「私も、情けないことを考えていました」
目が合って、まるで誤魔化すように軽く頬にキスをされた。
「絶望的な状況に、もし死んでも、エイダンを安全な場所にやっておけば良いだろうと」
シンシアがさっと表情を翳らせるのを見て、ライアスは叱られた犬のような顔になる。
「申し訳ありません」
ライアスはそのまま顔をシンシアの肩に埋めた。
捨て身の作戦ならワイバーンを殲滅させられると、無謀な計画も頭にあった。
「エイダンに見透かされ、釘を刺されたようでした。——あの子は賢い子です」
「ええ・・・」
シンシアはライアスの頭に手を回し、そっと撫でた。
「良かった。本当に。本当は、怪我人が運ばれてくる度に、貴方ではないかと真っ先に顔を確認していたんです。それで安心して、また恐ろしくなって、次はって・・・その繰り返しでした」
「はい」
あの緊迫した状況にきっと慣れることはないだろう。
エイダンが出陣した時の顔。マリーヴェルが大人びて我慢している時の顔。子供がそうやって子供らしくなくなる顔が、シンシアには耐え難かった。
「シンシア」
ライアスが身を起こし、シンシアを見つめた。
「大丈夫です。私が守り抜いてみせます」
今までもそうだったように。
そう言われているようだった。
シンシアは今の幸せをかみしめるように、そっと目を閉じた。
「——さて」
しばらくそうしていた後、ライアスがおもむろに立ち上がった。
ベッドに残されてシンシアは突然どうしたのかと見上げた。
「明日から休みとする事にしました」
「あら、そうなんですか」
危機的状況を脱して、ほっと一息つけるのだ、ゆっくり休暇をとるのもおかしなことではない。
「何日?」
「そうですね。少なくとも三日」
三日。それはとても珍しい。
「大丈夫なんですか?三日も休んで」
「問題ありません。それに、休むのは私ではありませんから」
「え」
ライアスはシンシアの目の前に膝をついた。手はつないだまま、そうするとシンシアを見上げるような体制になる。
「休むのは貴方です。シンシア、今度こそゆっくりしてもらいます」
「え、私?——いえいえ、そんな、三日も」
「ペンシルニアには優秀な副官も執事もいるのです。数日休んだところで困ることはありません」
ライアスがあまりに言い切るから、シンシアは混乱した。
「一体いつからそのつもりで・・・え?そういうものなのですか?戦時の後は休みを取るような・・・?」
「シンシア。貴方は、粉骨砕身、しゃかりきに働くので、仕事が好きだと思われがちですが。——実は、休日の方が好きでしょう?」
それは当たり前じゃないだろうか。
仕事はしないといけないからやるものであって、働いているからこそ、休日が何よりのご褒美になる。
「それなのに貴方は最低限の休日しか取らないので」
それは、文化の違いというか。いや、ただの性分なのだろうか。
ファンドラグの国民は休日を愛し、仕事の期日よりプライベートが優先だ。お酒を片手に仕事をする人もいるような国民性な方が、シンシアには少し馴染みがなかった。
「貴方は強制的に休日としないと休まないと思いましたので。私が決めました」
「でも、そんな急に」
そもそも休日って言われても何をしていいのやら。事後処理も残っている。
「シンシア」
ライアスにしては珍しく、少し強い口調だった。
仕事のあれこれを思い浮かべていた思考を無理やり引き戻される。
今までにない雰囲気に、シンシアは少し腰が引ける。
目線は下からなのに、暗闇の中濃茶の瞳がひたと見つめてきて、威圧感まで感じた。
決して強く握られた訳ではないのに、逃れられなくなる。
「君は、休むんだ。——言う事を聞かないのなら閉じこめるしかない」
ひっ、と悲鳴を上げそうになった。
ライアスがそんな言葉遣いをすることなんて、今まで一度もなかった。
体が大きいだけに、ただでさえ圧迫感のある人だ。だからだろうか、余計にシンシアには丁寧に、壊れ物のようにいつも扱ってくれていた。
それが、命令口調になった途端、ものすごい破壊力だ。いつもどれ程気を遣われていたのか思い知らされる。
ぞくりと全身が粟立つような興奮にも似た感覚を覚える。
シンシアはつながれていない方の手で顔を隠した。片手で隠しきれていない顔が、真っ赤になっているのが自分でもわかる。
——嫌だ、変な扉が開いてしまいそうだわ。
「シンシア?」
ライアスの声はまだ低いままだった。返事をするまで許さないというような様子に、シンシアは声を絞り出した。
「わ、わかった・・・わかりました。休みます」
そう言うとライアスは満足そうに繋いだ手に唇を寄せる。
心臓がうるさく鳴るのを隠したくて、シンシアは視線を合わせられないままに尋ねた。
「それで、お休みをして・・・私は何をしたらいいでしょう」
「シンシア」
ライアスがふっと笑った。
「その考え方が、良くない。いいですか、休日というのは、何もせずゆっくりするものです。やりたいと思う事を気まぐれにする程度でいいんです」
「何もせず・・・」
では、取り敢えず寝ようかと思う。シンシアの思いを察してかライアスがベッドに一緒に入って、いつものように腕枕をしてくれる。
実はシンシアは自覚していなかったが、かなり顔色も悪く、周囲にも心配されていた。
この次の日、シンシアはほとんど丸一日ベッドで眠り続けた。体は限界に近かったらしい。
そうして、ゆっくりと体を休めた後に、ライアスが嬉しそうに言った。
「私の休暇は、貴方を徹底的に癒すために取りましたから。覚悟してください」
その言葉通り、ライアスは今までにないほどにシンシアにかいがいしく尽くしてくれた。
食事を運び、下手をすると食べさせられ。髪も爪も整えられマッサージされて。好きな本、好きな香り、好きなお菓子——。
指一本動かせば、いや、動かす前にすべての欲求は満たされる、奇妙で穏やかな時間が流れた。
「これは・・・危険だわ。私、社会復帰できないかもしれない」
はたと気づいた時もライアスの腕の中だったが、その身体はがっしりと包み込まれるように抱かれていて抜け出ることはできなかった。
「駄目です、まだ甘やかし終わっていません」
「あ、甘やかし・・・?」
シンシアとしてはもう充電が終わった状態なのだが・・・。
「貴方は私の大切な人ですから。元気になってもらうまで、やりたいんです」
「元気になったわ。——あ、そうだ。次はライアスの番にしませんか?私も貴方を癒したいもの」
「何を言っているんですか。私は貴方に触れているだけで癒されているんです」
そう言ってライアスはシンシアの肩で深呼吸をした。
本当にそうやって吸われて充電されているようで落ち着かない。
そう思っているとライアスは深刻な口調で言った。
「でも、まだまだ足りませんね。次は何をしましょうか」
「は、はは・・・」
結局、休日は五日間続いた。
最後には子供たちと共に遠出したりもしたが、いつも以上に世話を焼いて離れないライアスに、久しぶりに胃もたれしそうなほど重い愛を感じる日々だった。