軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

5

廊下から他の足音が近づいてくる。

最初に教室へ駆け込んできたのは、やはりライネルだった。

「リリア様!」

彼は一瞬で聖女の前へ出た。何が起きたのかを確認するより早く、リリアを背に庇うように立つ。

それに続いて入ってきたエリアスが、床にへたり込むリリアと、足元に転がったカッターと、手に血を滲ませているエレノアを見た。

そして、嫌悪感を滲ませて眉をひそめた。

おそらくエリアスは、自分では冷静に状況を整理しているつもりなのだろう。

けれど今の私には、その顔がひどく恐ろしかった。彼は理性的に考えているつもりで、きっとすでに答えを決めている。誘導されている事に気付かず、見えているものだけを並べれば、悪いのはエレノアにしか見えないからだ。

悲鳴をあげて、床に座り込んだ聖女。

その腕の傷。

エレノアの足元のカッター。

そして、エレノアの足元で震えている銀色のハムスター。

エレノアも怪我をしている事までは意識にのぼらない。

もし私が昨日までの私だったなら。

この場に王子として駆け込んできたなら、何を言っただろう。

私は、胸の奥が冷たくなるのを感じた。

「何をした!」

ライネルが叫んだ。

「リリア様に刃を向けたのか!」

「ち、違うのです……」

聖女は震える声で言った。

涙を浮かべ、けれどエレノアを直接責めるのはためらうように、唇を噛む。

完璧だった。完璧に、か弱い被害者に見える演技だった。

「私、エレノア様を止めようとしたんです……その子を、殺そうとなさってたから……! その時に、揉み合いになってしまって事故で怪我を……」

その子……私のことだ。

ついさっきまで彼女自身が殺そうとしていた私を、まるで守ろうとしたかのように呼ぶ。

あまりに鮮やかな嘘に、私は一瞬、鳴くことすらできなかった。

「その子を?」

エリアスが問い返す。リリアは小さく頷いた。

「昨日、エレノア様が持って帰った子です。今日もお連れになっていたでしょう? けれど、教室で……その、刃物を……」

「そんなことを」

ライネルがエレノアを睨んだ。

「聖女様だけではなく、無力な小動物にまで」

「ちっ! ちゅちゅ! ちゅちー!」

違う。違う違う違う。

私は必死に反論を叫ぼうとした。

この女が私を殺そうとした。エレノアは止めた。カッターを持ち出したのは聖女だ。自分の腕を切ったのも聖女だ。エレノアは何もしていない。

そう言いたいのに、喉から出るのは「ぢゅ、ちゅっ」という、何の説得力もない鳴き声だけだった。

聖女がびくりと肩を震わせる。

「かわいそうに……。よほど怖かったのね。また暴れて……」

違う。暴れているのではない。抗議しているのだ。

だが、今の私が何をしても、ただ怯えた小動物がちょろちょろ動いているようにしか見えないのだろう。

エリアスは床のカッターを見下ろし、次にエレノアの手を見た。

「グランヴェル公爵令嬢。説明を」

冷静な声だった。

しかしその冷静さが、いっそライネルの怒声よりも刺さった。

他の生徒も集まってくる中、エレノアはすぐには答えなかった。

血の滲む手で、そっと私を拾い上げる。その指先は今までと違い、少し冷えていた。

私を庇うように胸元へ寄せてから、エレノアは静かに言う。

「まずは、刃物を片づけた方がよろしいのではなくて」

「話を逸らすな」

ライネルが唸るように言った。

「リリア様が傷を負っている。貴女にはこの状況を説明する必要があると思われますが」

「怪我ならわたくしも負っておりますわ」

エレノアは淡々と返す。

その言葉に、ライネルは一瞬だけ詰まった。

たしかに、エレノアの手にも傷がある。しかも聖女のものよりも深い傷だ。だがこの場の空気は、その傷を怪我の大小どころか同じ重さですら扱おうとはしない。聖女の涙が、彼女の浅い傷を何倍にも重いものに見せている。一方で、エレノアは泣かない。声も荒げない。だから、彼女の傷はただの事実としてそこに転がされているのだ。

血を流しているのに。

痛みがないわけではないはずなのに、誰もそれを見ようとしない。

私はエレノアの手の中で、体が震えるのを止められなかった。

私は、これを彼女にしていたのか。

泣いている者の言葉を起点にして、泣いていない者へ説明を求める。傷ついたと訴える者を守るためだと大義名分の元に、静かに立っている者を疑う。それを私は、公平だと思っていた。

違う。

違うのだと、今なら分かる。

けれど分かったところで、今の私はハムスターだ。

何も言えない。

何もできない。

その無力さが、歯がゆくて、悔しくて、胸の中で何かが熱く膨れ上がった。

これ以上、エレノアを悪者にさせたくない。

これ以上、彼女にだけ証明を求めさせたくない。

これ以上、聖女の涙を真実として扱わせたくない。

私が震えているのに気づいたのか、エレノアの指がそっと私の背に触れた。

撫でる、というより、そこにいることを確かめるような指だった。

彼女を庇う言葉すら口にできないこの身が不甲斐ない。私は手のひらの上で振り返り、エレノアを見上げようとした。

その鼻先に一粒、濡れた感触が落ちた。雨? 室内なのに?

その正体に気付いた瞬間、私の体の中で何かが弾けた。

銀色の光が、視界いっぱいに広がる。

昨日、私をハムスターに変えた時の黒い光とは違う。もっと澄んだ、細い糸のような光だった。それが体の奥からほどけていくように広がり、私の手足を、背中を、視界を、ぐんと引き伸ばしていく。

床が遠ざかる。

私が入っていた籠も大木のように聳えていた机の脚も、あっという間に視界の下になってしまう。

短く小さかった前足が人の手に戻り、常に視界の中でふわふわと揺れていた細いヒゲが消える。

最後にぽん、と間の抜けた音がした。

次の瞬間、私はエレノアの腕の中──というより、彼女と向かい合って手を握ったまま、人の姿に戻っていたのだった。

教室が、完全に凍りついた。

誰も声を出さない。

ライネルも、エリアスも、聖女も、集まり始めていた生徒たちも、教師も、皆がただ私を見ている。

当然だ。

今まで銀色のハムスターだったものが、いきなり王子レオンハルトに戻ったのだから。

正直、私だって見ている側なら声を失うだろう。

「……殿下?」

ライネルが、ようやく絞り出すように言った。

私は振り向いた。

久しぶりの人間の体は、妙に重かった。床に足がついている感覚が、懐かしいような、危ういような、おかしな心地だった。

気を抜くと前屈みになって手をついてしまいそうになる。四つん這いで動く癖がついてしまったのだろうか。

けれど、今はそれどころではない。

私はエレノアの前に立った。彼女を背に庇うように。

たったそれだけのことをするのに、ずいぶん遅くなってしまったと思った。

「ハムスターを殺そうとしていたのは、聖女リリアだ」

自分の声が教室に響いた。

人の声だ。

……ようやく届く声だ。やっと、真実を話せる言葉を取り戻した。

私は聖女を見た。

「エレノアではない。それは、殺されそうになった私本人が証言しよう」

聖女の顔から、一瞬だけ作っていた表情が消えた。

だが、彼女はすぐにまた怯えた顔を整えた。さすがと言うべきかもしれない。こんな状況でも、完全には崩れない。

「殿下……? どういう事なのか、私にはさっぱり……」

聖女は震える声で言った。

「どうして……? それに、今のは……」

「昨日から、私はその銀色のハムスターだったという事だ」

ざわめきが起こる。

生徒たちが顔を見合わせる。体調不良で休んでいるはずでは、という一般生徒の驚きの声も聞こえてきた。

「私はハムスターの姿でこの教室にいた。そこにやってきた聖女リリアが、私を……エレノアが連れてきたハムスターを殺して、黒魔術の生贄にした痕跡を残せばエレノアを追い詰められると、そう語っていた」

あまりにも衝撃的な暴露に、教室はシンと静まりかえる。

「聖女リリア。君は昨日、エレノアの机に仕掛けた呪いが発動したことを確認しに来たな」

聖女の目が、わずかに揺れた。

「そしてハムスターになった私を見て言った。エレノアがドブネズミになるはずだった、と」

「違います」

即座に返ってきた。涙を浮かべたまま、彼女は首を振る。

「私、そんなこと言っておりません。きっと、殿下は魔法で混乱されて……」

「先ほども聞いた」

私は彼女の言葉を遮った。

「エレノアをドブネズミにするために高い金を払ったと。姿が変わったところを、皆に駆除させて終わりのはずだったと」

教室の空気が、ぞわりと動いた。王族である私の言葉を信じかけている気配を感じたのか、聖女は青ざめているように見える。

だが、それでも彼女は崩れきらない。

「ひどい……。殿下、どうされてしまったのですか……私、そんな心当たり一切ありません……」

その言葉には、まだ人を動かす力があった。

泣く者の声は強い。

特に聖女の涙は、人に罪悪感を抱かせるのが上手い。

ライネルが苦しげに顔を歪める。

「殿下、やはりリリア様がそのようなことをするはずが──」

「では、エレノアの机の裏を調べろ」

私は言った。しゃくりあげて泣いていた聖女の肩が固まる。

「呪いの痕が残っている。発動した術の残滓も、砕けた呪具の痕跡もある。王宮魔導士を呼んで詳細に調べてもらえば、誰が仕掛けて誰が呪いを受けたか分かるはずだ」

エリアスが、はっとしたようにエレノアの机を見る。

さすがに彼は、感情だけで否定しきれないものを理解したのだろう。

「殿下が呪いを受けた呪術の痕跡が残っているなら……鑑定で確認できます」

低い声だった。聖女をまだ信じている様子のライネルがエリアスを見る。

「エリアス!」

「確認は必要です」

咎めるように名前を呼ばれたが、エリアスは顔色を悪くしながらも言った。

「殿下がハムスターの姿から戻られたのは、全員が見ました。幻覚などでは説明しにくい。机に呪術の痕跡があるなら、調べるべきです……その犯人も」

その言葉に、聖女の目が一瞬だけエリアスへ向いた。

責めるような、縋るような、そしてほんの少し憎むような目だった。

エリアスは、その目をまともに受けていられなかったのか、視線を逸らした。

教師が我に返った。

「だ、誰も机に触るな!」

その声は震えていたが、教師としての判断は失われていなかった。

「すぐに城から魔導士を呼ぶ。リリア・ベル嬢、グランヴェル公爵令嬢、殿下も、この場を動かないでください」

「先生、違うんです……」

聖女はなおも言った。

「私、そんな事してません。これは誰かが私に罪を着せるために……今だって、エレノア様がその子を傷つけようとしていたから……」

「違う」

私は短く言った。今度は迷わない。

「そのハムスターは私だ。君が殺そうとしたのは、私だ」

聖女の唇が震える。

「そして、その罪もエレノアになすりつけようとした」

教室の誰かが息を呑んだ。

ライネルは信じられないものを見る顔で聖女を見ている。だが、その顔はまだ完全に疑いへ傾いてはいない。信じたいものと、目の前に積み上がり始めた事実の間で、ただ立ち尽くしている。

それでいい、と私は思った。

すぐに掌を返してエレノアを庇うようなことをされても、それはそれで腹立たしい。昨日まで、そしてつい先ほどまで、彼らは聖女の涙を信じていたのだ。簡単に態度だけ変えられても、何の反省にもならない。

信じていたものが崩れるなら、きちんと痛みを伴って後悔と反省をするべきだ。

私がそうだったように。

私はエレノアを振り返った。彼女は変わらず、静かにそこに立っていた。

手の甲からはまだ血が滲んでいる。白い肌の上を、赤が一筋伝っていた。

その傷を見た途端、胸の奥が詰まった。

「エレノア」

名前を呼ぶと、彼女は私を見た。

「……すまない」

今ここで言うべき言葉がそれだけでは足りないことは分かっていた。

だが、出てきたのはそれだけだった。

エレノアは、ほんの少しだけ瞬きをした。

「今は、事実の確認が先ですわ」

それだけを言う。

責めない。許すとも言わない。

泣きもしない。

ただ、今すべきことを淡々と選ぶ。その姿がまた痛々しく、頼もしさと共に、私が支えたいと思わせた。

その場で全てが決着したわけではなかった。

現実というものは、物語のように一瞬で悪人が暴かれ、周囲が一斉に謝り、正義が完全に勝利するようにはできていない。

聖女は最後まで泣いて、罪を認めなかった。

震えながら、自分は何も知らないと言い続けた。ハムスターを殺そうとしたのは、病気を持っている害獣だからと。

怯えて混乱していたからつい。気が付いたらカッターを持っていて、エレノアを傷付けたのは事故で、殿下は呪いで混乱していて、自分の言葉を聞き間違えたのだと。

人前での彼女は、最後まで聖女だった。

弱く、可憐で、傷つけられた被害者の姿を崩さなかった。

だが、机の裏には確かに呪いの痕跡が残っている。

王宮魔導士が呼ばれ、教室は封鎖された。机の裏からは、禁制の黒魔術の一種、変化の呪いと呼ばれるものが確認された。砕けた呪具の破片も見つかった。呪いの仕掛ける時に残った設置者、つまり聖女自身の魔力も検出された。

それは、エレノアを標的にして聖女が仕掛けたもので間違いなかった。

さらに、その聖女自身の治癒の力の真偽についても疑わしい要素が出てきた。

そのため、教会側にも照会が入ることになった。聖女の周辺にいた後援者の枢機卿や従者にも事情聴取が及ぶと教師が告げた時、彼女の顔からほんの少し血の気が引いた。

ほんの少しだけだ。

彼女はそれでも涙を浮かべ、何も知らないと言い続けた。そこだけは思わず感心してしまった。

ライネルは、何度もリリアを見て、私を見て、エレノアを見た。

何かを言いたそうに口を開き、結局何も言えないで俯いている。エリアスも同じだった。

彼は状況の矛盾を理解してしまったのだろう。だが理解したからといって、すぐに自分の過ちを認められるほど、人は簡単ではない。彼はただ青ざめた顔で、机の呪術の痕跡を見つめていた。

それでいい。私はそう思った。

彼らが今すぐエレノアに謝ったとしても、それで終わりにはならない。

聖女の涙を信じたこと。

エレノアにだけ説明を求めたこと。

聖女が泣いて、エレノアが冷静であるからといって、エレノアが悪と決め付けるように最初から考えていた事。

そういうものは、簡単な謝罪一つで片づけてよいものではない。

もちろん、私自身も。

騒ぎが一段落した頃には、日が傾き始めていた。

聖女は教師と王宮魔導士、それから学園付きの護衛に連れていかれた。拘束という言葉はその場では使われなかったが、自由に帰されるわけではないことは誰の目にも明らかだった。

彼女は最後まで私を見た。

涙で濡れた目だった。

その目だけを見れば、まだ誰かの同情を誘えただろう。

だが私はもう、あの目の奥にあるものを知っている。知ってしまった。

聖女がいなくなると、教室に残った者たちは妙な沈黙に包まれた。

誰も、すぐには口を開かない中、ライネルが一歩私の方へ踏み出す。

「殿下、私は……」

言いかけて、私がまっすぐ彼を見ているのに気付いてライネルは言葉を失った。

怒りはあった。

彼は昨日、私を箒で叩き潰そうとした。とはいえ、私を王子だと知っていたわけではないから、そこはまだいい。いや、よくはないが、ひとまず置いておく。

問題は、彼がエレノアをどう見ていたかだ。

聖女が泣いて、怯えている。

だからエレノアが悪い。

その思い込みで、彼はずっと彼女を睨んでいた。

「今すぐ言葉にしなくていい」

私がそう言うと、ライネルが目を見開く。

「だが、考えろ。自分が何を見て、何を見なかったのか」

ライネルの喉が動いた。

「……はい」

エリアスにも視線を向ける。

彼は私と目が合うと、わずかに唇を引き結んだ。

「君もだ、エリアス」

「はい」

エリアスの返事は小さかった。

「状況から疑うべきだと言うなら、最初に訴えた者の状況も同じだけ精査するべきだった」

そう言いながら、私は自分の胸が痛むのを感じた。

これは彼らにだけ向けた言葉ではない、私自身に向けた言葉でもある。

「疑われた者にだけ証明を求めるのは、公平ではない」

エリアスは、何も言わずに頭を下げた。

その謝罪が誰に向けられたものなのか、私には分からなかった。

私か。エレノアか。

あるいは、彼自身が信じていた正しさに対してか。

エレノアは、その場でもやはり何も言わなかった。

ただ、傷ついた手を、手当てされた上から押さえている。

私は彼女へ向き直った。

「君にも、怪我をさせてしまった。私を庇うために申し訳ない……そして、ありがとう」

「殿下とは知らずにした事ですが、助けられて良かったですわ。大した傷ではありませんし」

「そんな事はない。私が……傷つけた原因が言うことではないが」

言ってから、私はわずかに息を止めた。

その言葉が、自分に返ってきたからだ。

疑われた側の痛みを、疑った側が軽く見積もるな。

傷つけられた者が平静でいるからといって、傷ついていないと思うな。

エレノアは、私の顔を見た。

それから、ほんのわずかに目を細めた。

「……では、傷については謝罪を受け入れますわ」

その言葉に、私は少しだけ救われた気がした。

救われる資格があるのかどうかは、まだ分からない。

それでも、彼女が私の申し出を拒まなかったことに、胸の奥が小さく緩んだ。

後日。

王城の客間で、私はエレノアと向き合っていた。

あの日の騒ぎは、まだ完全に終わったわけではない。聖女の件は教会と王城を巻き込んだ調査になり、どこから禁制の呪術を手に入れたのか、これから調べられていく事になる。

しかしその力に疑いの目はあるが彼女が教会の認める聖女である以上、扱いは慎重にならざるを得ない。だが少なくとも、もう彼女の涙だけで何かが決まることはなかった。

私がドブネズミではなくハムスターになった事については、エレノアを対象者に設定された呪いが違う相手に発動した事で、呪いが一部誤作動したのではないかと言われた。けどそれに救われた形だ。呪い通りにドブネズミになっていては、エレノアも流石に家に連れ帰ってはくれなかっただろう。

そして今のエレノアの手には包帯が巻かれていた。

白い包帯を見るたび、胸の奥が重くなる。

彼女の傷は、私が直接つけたものではない。だが私の過ちと無関係だとはとても言えなかった。

「……謝罪させてほしい」

私は頭を下げた。

王子としてではなく、ただ一人の愚かな男として。

エレノアはしばらく私を見ていた。

「どうぞ」

短い返事だった。

私は顔を上げられないまま、言葉を探した。

謝罪というものは、難しい。

すまなかった、だけなら簡単だ。だが、それでは何に対して謝っているのか分からない。漠然とした謝罪は、時に自分の罪悪感を軽くするためだけのものになる。

だから私は、できるだけ正確に言わなければならなかった。

「私は、聖女の言葉を鵜呑みにしたつもりはなかった」

声が少し硬くなった。

「公平であろうとした。片方だけを信じて裁くのは違うと、本気で思っていた」

エレノアは黙っている。

「だが、違った」

私は自分の中から言葉を探しながら、拳を握った。

「私は、『財布を盗まれた』と訴える者の言葉を信じて、無実の者に『盗んでいないなら鞄の中を見せられるだろう』と迫るのと同じことをした」

あの時、エレノアが兄に言った言葉。

籠の中で聞いた時、私は反論したかった。

今はもう、反論できない。

「中立のつもりで、訴えた側の土俵に立っていた。疑われた君にだけ、説明と証明を求めた。私は調停者のつもりで、実際には加担していた」

言葉にすると、改めて恥ずかしかった。

自分がどれほど愚かだったのか、声に出すたびに思い知らされる。

「君の机を勝手に開けて呪いを受けたのは、きっと罰だったのだろう」

私は続けた。

「君がいない場所で、君に疑いを向ける手紙を入れようとしたんだ。とても、君に対して失礼な行いだった」

沈黙が落ちる。

エレノアは怒鳴らない。責め立てもしない。

だから、私の言葉だけが静かな部屋に残る。

「すまなかった」

私は深く頭を下げた後もしばらく、エレノアは何も言わなかった。

その沈黙は怖かった。

けれど、当然だと思った。

許してほしいと願う資格すら、こちらにはないのかもしれない。

やがて、エレノアの声がした。

「これで、お分かりになったでしょう」

私は顔を上げた。彼女は静かに私を見ている。

「一方の言い分を聞き入れて動くことが、どれほど簡単に冤罪を作るか」

「……ああ」

喉の奥が苦かった。

「身に沁みた」

「それなら、今回はそれで結構ですわ」

私は目を見開いた。

「許してくれるのか」

「学んだ方を、いつまでも責めても仕方ありませんもの」

エレノアは、包帯の巻かれた手を静かに下ろした。

「それに、殿下はちゃんとご自分で気づけましたものね」

その言葉は、穏やかだった。

穏やかだったが、私はなぜか背筋が伸びるような気がした。

ご自分で気づけた。

確かに、私は自分で見た。自分で聞いた。ハムスターの姿で床を逃げ回り、聖女の本性を知り、エレノアが傷つくのを見て、ようやく気づいた。

だから、私はただ頭を下げた。

「今後は、同じ過ちはしない」

「そうしていただければ十分ですわ」

エレノアはそう言った。

私はもう一度、深く礼をする。その後は、婚約者同士として久しぶりに聖女の混ざらない会話を交わして、時間となったエレノアは屋敷に帰って行った。

「お帰り、エレノア」

「ただいま戻りましたわ、お兄様」

エレノアが帰宅を告げると、ヴィクトルがエレノアを強く抱擁して頬擦りした。ハムスターの前では見せなかった、いささか「兄妹愛」と一括りにするにはじっとりと重すぎる接触だ。

「……結局レオンハルトを許しちゃったのかい?」

「ええ。これでこれからは疑り深くなって、わたくしの言葉もよく聞いてくれるようになりますわ」

まるで犬の調教のように軽い口調でそう言うと、ヴィクトルはその女王様然とした態度にうっとりとした視線を向けた。

「ああ、エレノアは最高だな。……ねぇ、やっぱり王子を廃嫡して僕らで王位を簒奪する方にしない?」

歌うように大罪を誘う兄に、エレノアはほんの少し苦笑すると嗜めるように言った。まるで、こちらも出来の悪い犬の躾をするように。

「ダメよ。わたくし、レオンハルト殿下の事は気に入ってるのだから」

「え〜。あんな愚か者のどこが? お勉強はちょっと出来るけど、騙されやすいし、聖女にさんざん利用されちゃって。自分がどう見られてるかすら頭が回らないおバカさんじゃないか」

「あの庇護欲を誘うようなほんの少し垂れた紫色の目とか、太めの眉にちょっと厚めの唇とか、とっても可愛いくてわたくし好みなの」

「顔かぁ……」

ヴィクトルは切れ長の吊り目をぐいぐいと指先で下に引っ張りながら、残念そうな顔をした。

「それにしても随分優しいんだね」

「何の事です?」

「だって、ドブネズミじゃなくてハムスターにしてあげたんだろう? 『ぬばたまの魔女様』」

ヴィクトルはエレノアの豊かな黒髪をひと房掬い上げ、そこにねっとりと口付けながら上目遣いでそう尋ねた。

「ええ。だって、ドブネズミじゃわたくしだってあんまり触りたくありませんもの」

エレノアはいつものように静かに目を伏せ、ほんの少しだけ口元を和らげた。