軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第一話 何もかも忘れてしまえたなら

「ああ、なるほど。わたくしは、ここで退場するのね」

公爵令嬢レオノーラ・シュタインフェルトは、笑顔のままそう思った。

王城の大広間は、今夜も眩いほど華やかだった。

金の燭台。磨き上げられた白大理石。香水と花の匂いが混じり合う、甘く気高い空気。

舞踏会の夜に相応しい、完璧な煌めき。

そしてその中心にいるのは、この国の未来を担う第一王子マティアス・ローゼンベルク。

淡い金髪と、凍てた湖のような灰青の瞳を持つ、美しい王子。

その隣に立つのは、婚約者であるレオノーラの役目だった。

「殿下、お飲み物を」

控えめに声をかけると、マティアスがこちらを見た。

整った横顔。静かな眼差し。

幼い頃から見慣れているはずなのに、いまだに胸が少しだけ苦しくなる顔だった。

けれど、その瞳は次の瞬間、レオノーラの向こう側へ流れた。

視線の先にいたのは、伯爵令嬢ベアトリーチェ・ハルトマン。

ふわりと巻いた栗色の髪。薔薇色の頬。守ってあげたくなるような愛らしさ。

最近社交界に出てきたばかりだというのに、気づけば誰もが彼女を話題にしていた。

そして、マティアスもまたその一人。

ほんのわずかな視線の揺れ。

けれどレオノーラには、それで十分だった。

やはりそうなのだ。

最初からわかっていた。

これは政略の婚約であって、恋など差し挟む余地はない。

王太子妃として相応しくあるよう育てられた自分より、可憐で柔らかく、感情を素直に表す令嬢のほうが、殿下には眩しく映ることもあるのだろう。

ならば、静かに退く準備をしよう。

そう決めた瞬間、不思議なくらい心が静かになった。

公爵令嬢レオノーラ・シュタインフェルトは、笑顔の作り方を三歳のときに覚えた。

泣きたいときも、悔しいときも、困ったときも、顔に出してはいけない。

公爵家の娘として、未来の王太子妃として、常に優雅で、穏やかで、完璧であれ。

そう教えられて育った。

だからこそ、恋心もまた誰にも言えなかった。

幼い頃の茶会で、緊張のあまりカップを持つ指先を震わせたことがある。

そのとき、まだ少年だったマティアスが、誰にも聞こえないほど小さな声で囁いたのだ。

「急がなくていい」

そのひと言を、レオノーラはずっと覚えていた。

優しい人だと思った。

その日から、彼のことが好きだった。

けれど、その想いは表に出さなかった。

これは恋ではなく、義務の婚約なのだから。

問題は、ベアトリーチェがそれでは満足しなかったことだ。

ベアトリーチェは、あからさまにレオノーラを嫌っていた。

理由は明白。

王太子の婚約者の座に、レオノーラがいるから。

最初は些細なもの。

挨拶を返さない。

お茶会の席順を乱す。

聞こえるように陰口を零す。

レオノーラは涼しい顔でそれらを受け流していた。

けれど、悪意は次第に露骨になっていった。

そして、ある日の昼下がり。

王城東塔へ続く石階段で、それはとうとう事故では済まないものになる。

「ごきげんよう、レオノーラ様」

背後からかけられた声に、レオノーラは足を止めた。

振り向けば、案の定、そこにいたのはベアトリーチェ。

「ごきげんよう、ベアトリーチェ様。何か御用ですか」

「ええ。少しだけ」

少しだけ、の声音ではなかった。

甘い声の奥に、焦りと苛立ちが混じっている。

「最近、殿下がわたくしに優しいの。ご存じ?」

「そうですか」

「……それだけ?」

「何とお返事すればよろしいのか」

にこやかに返すと、ベアトリーチェの顔が引きつった。

「いつもそう。余裕ぶって、完璧ぶって、何も痛くないみたいな顔をして」

「そのようなつもりは」

「でも邪魔なのよ!」

次の瞬間、背中に強い衝撃が走った。

息が詰まる。

身体が宙に投げ出される。

石階段が視界の中で回転し、天井と床がぐるりと反転した。

落ちる、と思った。

そのあとに続いたのは、激しい痛みと、遠ざかる意識だけ。

次に目を開けたとき、そこは白い天井の下だった。

薬草の匂い。静かな部屋。重い頭。

側頭部に巻かれた包帯の感触で、自分がまだ生きていることを知る。

そして、視線をゆっくり横に向けて、レオノーラはすべてを理解した。

寝台の傍らに、マティアスが立っていた。

そのすぐ隣には、目を真っ赤にしたベアトリーチェ。

今にも倒れそうな彼女の肩を、マティアスが支えている。

「……よかった……本当に、よかった……」

しゃくり上げるベアトリーチェを、マティアスは振り払わない。

低い声で何かを告げているが、まだぼんやりした頭では聞き取れなかった。

ただ、その距離だけははっきり見えた。

ああ、なるほど。

レオノーラは、そこでようやく腑に落ちた。

わたくしは、邪魔だったのだ。

そして殿下にとっても、今やそう遠くない存在になっているのかもしれない。

だったら、ちょうどいい。

階段から落とされたことを訴えたところで、証拠がなければ水掛け論になる。

みっともなく縋る婚約者になるだけかもしれない。

でも、もしも。

もしもここで、何もかも忘れてしまったことにすれば。

公爵令嬢としての責務も。

王太子の婚約者という立場も。

彼に恋をしていた愚かな自分さえも。

全部、なかったことにできるのではないか。

頭はずきずきと痛んだ。

けれどそれ以上に、思考は妙に冴えていた。

いい考えだわ。

少なくとも、泣くよりはずっと。

レオノーラはゆっくりと目を瞬き、震える声を作った。

「……あの」

マティアスが顔を上げる。

ベアトリーチェも、びくりと肩を揺らした。

「ここは、どこですか……?」

「レオノーラ?」

「わたくし、どうしてここに……?あなたは……誰……?」

沈黙が落ちた。

ベアトリーチェの顔から、さっと血の気が引いた。

マティアスだけが、なぜかじっとレオノーラを見つめていた。

まるで、その言葉の奥まで見抜こうとするように。

けれどレオノーラは、きょとんとした顔を崩さなかった。

そう。

今日からわたくしは、何も覚えていない哀れな令嬢。

王太子の婚約者ですらない、ただのレオノーラになるのだ。

少なくとも、そのつもりだった。

翌日から、当の王太子が毎日部屋に通ってくるまでは。