軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

56 平静を装えば、なんてことない日常だ。

忘れろ。

心の中でそう唱える。

昨日の夜のことは、何かの夢だったんじゃないかと思うことにする。

実際、無意識下の俺の願望が見せた幻なんじゃないかと思えることはあった。

……いや、そんな願望持ってたら危険すぎるだろう。主人のベッドに入りたがるなんて。

忘れろ。

そうずっと心の中で唱えているのに、一日生活する中で、何度も反芻してしまうのはどういうことだろうか。

薄暗い部屋。目の前の柔らかな髪の感触。間近にあったアセリアの瞳。

ダメだダメだ。

勢い余って振り回した桶の中の水が、びちゃん!とハルムに跳ねた。

「はっはっは!」

びしょびしょになったハルムを見て、笑ったのはオタルさんだ。

「珍しいな」

確かに、珍しかった。こんな失態。

この8年働いてきて、ミスをすることなどなかった。

「疲れてるのかもしれん。お前、今日はちょっと休め。ほれ、野菜食え」

休みを取ることも。

こんなの初めてだ。

環境が変わったから?疲れたから?

いや、アセリアが居るからだ。

両手に野菜を持たされる。

水がしたたり落ちる、びしょびしょのズボン。

小屋に戻ったところで、着替えの一つもないが、野菜を持ったまま歩き回るわけにもいかなかった。

幸いなことに、小屋にはアセリアはいなかった。

こんな姿、見せるわけにはいかない。

まあ、着てれば乾くだろ。

キッチンに野菜を置き、後ろを振り返る。

誰もいない部屋。

「はぁ〜……」

こんな姿なのに。あんなことがあって避けていたのに。君がいないことを寂しく思うなんて。

主人がいないことを寂しく思う犬のようなものなのだろうか。

大丈夫。

次に会う頃には、平静を装える。

そう思いながら、ハルムはキッチンで、湯を沸かし始めた。

それからしばらくして、アセリアが入ってきた。

「ただいま戻りましたわ」

「お帰りなさいませ」

こんないつもの挨拶も、いつから、どこかしらよそよそしいと思うようになってしまったのだろう。

「お嬢様、すぐご飯にしますね」

「ええ」

アセリアには、きっとなんでもないことだったんだろう。

布団に誘うなんて、ちょっとした気まぐれか、何かの勘違いか。

ハルムは、コトリとスープの器をテーブルに置く。それにパン。

アセリアが、テーブルの上に、ハンカチに包まれた焼き菓子を取り出す。

「これは?」

「ウィンリーにもらいましたの。今日は村の女の子たちと仲良くなりましたわ。香袋作りが進みそうですのよ」

「それは良かったです。何か準備するものはありますか?」

「まず、ハーブを乾燥させる必要がありますわ。それと同時に、布も探さなくては」

「商人に聞いておきましょうか」

「それがいいですわね」

ほら、問題なく平静を装える。

「ハルム!」

キッチンへ向かう途中、そう呼ばれたから振り向くと、目の前に立ち上がったアセリアの顔があった。

「…………!?」

手には例の焼き菓子を一つ持っている。

くれようとしたのか。

あまりの近さに、顔が熱くなる。

アセリアも、なんだか慌てているようだった。

「し、失礼しましたわっ」

「いえ。……大丈夫です」

大丈夫。平静を装えば、なんてことない日常だ。

アセリアが、火照った顔で、誤魔化すようににっこりと笑う。

……本当に平静を装えるのならば。