作品タイトル不明
第112話 ささやかなアクシデント
巌の家を出てリムジンに乗り込んだ陽斗は座席に座ると珍しく大きなため息を吐いた。
「色々と問題のありそうな家でしたね」
彩音が車内のグローブボックスから冷たいお茶を取り出して陽斗に手渡す。
「そう、だね。大隈君、大丈夫かな」
陽斗が悲しげな表情でこぼす。
「お母様と妹さんとの仲は良いようですから、自分がしっかりしなければと思っているのかも知れませんね」
彩音が陽斗の様子を注意深く観察しながら相づちを打つ。
根深い確執のありそうな大隈家の状況が、虐待を受けていたトラウマを刺激したりしないかが心配だからだ。
「僕に何かできることってあるかな?」
「陽斗さまがその気になればいくらでもできますね。資産のごく一部を使って彼と母親、妹をあの家から引き離してしまえばそれ以上彼が親族に煩わされることは無くなるでしょうから」
彩音があっさりと解決策を提案するも陽斗は眉を寄せて難しい顔をする。
「でもそれって大隈君と、お世話になってる人達の関係が改善するわけじゃないんだよね。逆にこじれる気がするんだけど」
「そうですね」
彩音は応じながら嬉しそうに微笑んだ。
陽斗が単純に金銭で解決するような発想をしなかったからだ。
世の中にはお金で解決できることは沢山あるし、むしろその方が多いくらいだ。
だが、同時に人間は感情の生き物であり、金や権力では片付かないこともそれなりにある。
陽斗はこの歳ですでに大富豪と呼ばれるほどの金融資産を持っていて、その気になれば一生遊んで暮らすことだってできる。
今はまだ実感が伴っていないのだろうが、いずれはお金の力と怖さを知るときが来るだろう。
だが、今の時点で安易にその力を使うのではなく、お金ではできないことを感覚で捉えている様子なのに感心したのだ。
とはいえ、引き離す以外の方法だと家族間の問題は解決するのが難しい。
「当主である彼の祖父の様子だと陽斗さまの素性もある程度知っている様子なのでことさら関係を悪くすることはしないかも知れません。ただ、言っていた内容からすると伯父でしょうか、玄関で会った男性はあまり快く思っていないようですね」
彩音が大隈家の印象をそう評する。だが陽斗は違うことを感じたようだ。
「そう、かな? なにか無理して冷たくしてるように思えたよ」
「そうすると、当主の手前ことさら厳しくしているということでしょうか」
彩音は唇に人差し指を当てながら先ほどの光景を思い起こす。
言われてみれば、巌が招いたと思い込んでいたにしては陽斗と彩音には目もくれず、人格を否定するような暴言もなかった。
もし巌達を冷遇しているのなら陽斗に対しても嫌みのひとつも言ってきそうなものだ。
彩音も陽斗に特別な人を見る目があることを知っている。特に悪意には敏感で、表面をいくら繕っても惑わされることはない。
過酷な生い立ちによって培われた生存本能のようなものだろうと思っている。
「とりあえず、今回のことで陽斗さまがわざわざ忘れ物を届けるくらい彼と親しいと思われたでしょうから、少なくとも当分は大丈夫だと思いますよ」
「うん、僕も大隈君に悩みを打ち明けてもらえるように頑張ってみる」
陽斗がそう言って拳を握りしめるのを見て、彩音は悶えそうになるのを必死にこらえていたのだった。
その翌日。
いつものように放課後に生徒会室に顔を出した陽斗は、穂乃香と巌と一緒にグラウンド倉庫に向かうことになった。
ここには各運動部の道具類の予備が置かれており、その在庫を調べるためだ。
運動部それぞれに予備が置かれないのは、過去に備品の管理や使い方が非常に悪かったことがあったため、必要になったらその都度申請するようにしたかららしい。
なので、倉庫の扉を開いても、多くの学校の体育倉庫のようなカビ臭さは無く、新品のゴムのような匂いがかすかにするだけで、中も綺麗に整頓されている。
「チェック表に備品名と規定の数量が書いてありますので陽斗さんが在庫の数を記入していただけますか?」
「うん」
「大隈さんは箱を空けて中身を確認してください」
穂乃香の指示で作業を開始する。
といってもそれほど時間がかかる訳でもない。穂乃香の指示が的確だったのもあってほんの20分ほどで作業は終わった。
身体の大きな巌が高い位置の棚や重量のある物でも軽々とこなしたのも大きい。
「うん、これで終わりかな」
陽斗がチェック表を見ながら抜けが無いかを確認する。
だがそれが良くなかったらしい。
それなりの大きさの倉庫とはいえ、全運動部の備品が置かれていれば狭く感じるほどで、中には長さがあるために棚に収納できず立てかけてあるだけの物もある。
陽斗はバインダーに挟まれた表ばかり見ていたために、棚の前にあった弓道部の弓ケースに蹴躓いてしまう。
そして間の悪いことに、ケースに下から突き上げられたことで上に置いてあった段ボールが落下する。
「先輩!」
「え? わぁっ!」
ドサッ!
とっさに巌が手を伸ばすがさすがに届かず、段ボールは陽斗の身体を直撃して中に入っていたバスケットボールが散らばってしまった。
「陽斗さん! 大丈夫ですか?!」
「いたたた、ごめんなさい落としちゃった」
穂乃香が慌てて駆け寄るが、転んだ上に崩れた箱の直撃を受けた陽斗は恥ずかしそうに頭を掻きながら身体を起こす。
巌が散らばったボールを手早く集め、段ボールに入れ直して棚に戻すと、申し訳なさそうに陽斗が頭を下げる。
その拍子に、わずかに顔をしかめたのを穂乃香が見逃すはずが無い。
「陽斗さん、足、痛いのですか?」
「あ、その、ちょっと捻ったみたいだけど、大丈夫だよ」
陽斗が何でもないよとばかりに笑みを見せながら首を振るが、巌が無言のまま陽斗の身体をヒョイッと持ち上げると、倉庫の隅にある足台に座らせた。
「先輩、ちょっとすんません」
巌はそのまま陽斗の足元にしゃがみ込んで右の足首を軽く押す。
ピクッ。
ある一点に指が触れた瞬間、かすかに足が動く。
だが、陽斗は笑みを浮かべたまま表情は変わらない。
それを見て穂乃香がむぅっと不満そうに眉をひそめた。
「陽斗さん、我慢してはいけません」
「あの、このくらい別に」
「駄目です!」
少々の痛みは無自覚に我慢する癖がある陽斗の言葉は信用されないらしい。
「軽い捻挫だろう。少し熱を持ってるからこれから腫れてくるかもしれない。無理はしない方がいい」
陽斗が穂乃香ににらまれている間に、巌が靴下まで脱がせて見ていたようで、沈着な態度でそう言った。
「とにかく保健室に行きましょう。大隈さん、陽斗さんに肩を貸してあげてくれるかしら」
穂乃香の言葉に巌は頷き、陽斗の身体を抱えるとそのまま倉庫を出る。
そしてまるで大きな荷物を抱え上げるかのように右肩に陽斗を座らせた状態で乗せる。
「わ、わわっ」
穂乃香が言った「肩を貸す」とは違う形なのだが巌は平然と陽斗を肩に乗せたまま歩き出した。
「お、大隈君、僕歩けるから」
「駄目だ、あ、いや、駄目です。捻挫は悪化させないようにしないと癖になるんで。それに先輩は軽いから負担にもならないし」
「陽斗さん、動くと危ないですよ。大隈さん、負担でなければそのまま運んでください」
「了解です」
恥ずかしがった陽斗の希望は聞き届けられることなく、2m近い男子の肩に乗る小柄な男子という、普通ならまず見られない姿に、注目を集めながら保健室に向かうのだった。