作品タイトル不明
第七話 保護院の朝は名前で始まる
グランヴィル領都は、王都ほど華やかではなかった。
石造りの家々は低く、屋根は雪を落としやすいよう急な角度で並んでいる。通りには毛皮の襟をつけた人が多く、春だというのに風は冷たい。けれど市場には干し林檎、燻製肉、羊毛の靴下、手作りの木の玩具が所狭しと並び、暮らしの匂いが濃かった。
保護院は領都の北側にあった。
高い塀に囲まれた陰気な施設を想像していたが、実際には大きな中庭を囲む木造と石造りの建物だった。洗濯物が風に揺れ、鶏が土をつつき、玄関には子ども用の小さな靴がきれいに並んでいる。
玄関の上には木札が掲げられていた。
グランヴィル北境保護院。
その下に、少し小さな字で、もう一文。
ここでは、あなたの名を呼びます。
リネリアがその文字を見上げた。
「おかあさま、なんてかいてある?」
私は読んで聞かせた。
すると娘は、胸の前で布うさぎのモモを抱きしめた。
「いいね」
「ええ。いいわね」
院長のマリベルは、五十代ほどの女性だった。丸い眼鏡と深い皺が印象的で、動きに無駄がない。彼女はテオドール様に礼をしたあと、私たち母娘へ向き直った。
「エレノア様、リネリア様、アンナ様。ようこそ。お部屋は西の職員棟に用意しました。まずは温かいものを召し上がってください。説明はそのあとで十分です」
リネリアの顔が少し明るくなった。
「スープ?」
「ええ、豆と干し肉のスープです。小さい人には林檎もあります」
「リネ、ちいさいひと?」
「小さい人で、立派なお客様です」
マリベルの返答に、リネリアは照れたように私の背へ隠れた。
食堂には十数人の子どもがいた。年齢は三歳ほどから十二歳くらいまで。全員が一斉にこちらを見るわけではなく、食事を続ける子もいれば、好奇心でじっと見つめる子もいる。無理に挨拶させないところに、保護院のやり方が表れていた。
食事の前、マリベルが小さな鐘を鳴らした。
「朝の名呼びをします」
子どもたちはそれぞれ席に着き、職員が名簿を開いた。私は何をするのかと思ったが、すぐに分かった。
「ノル」
「はい」
「リタ」
「はい」
「ヨハン」
「はい」
「マイラ」
「はい」
出欠確認に似ている。けれど、その声には事務的な冷たさがなかった。呼ばれた子は、声を返す。声を返せない子は、手を上げる。まだ名前を言われるのが苦手な子には、職員が隣でそっと肩に触れる。
前世の保育園にも、朝の点呼があった。
けれどここでは、名呼びそのものが保護術になっている。名を呼び、本人が返すことで、子どもと場所の結びつきが強まるのだろう。
マリベルは最後に、私たちの方へ目を向けた。
「今日は新しい方が来ました。呼ばれてもよい方だけ、お返事を」
無理強いしない言い方だった。
「アンナ様」
「はい」
「エレノア様」
「はい」
そして、少し間を置いて。
「リネリア様」
リネリアは私の袖を握った。食堂の子どもたちが見ている。娘は緊張で唇を結んだが、やがて小さく手を上げた。
「……はい」
誰も笑わなかった。
職員も子どもたちも、ただ普通にその返事を受け止めた。
それだけで、娘の背筋が少し伸びる。
食後、私は職員室で正式な説明を受けた。保護院には三種類の子どもがいる。親族が見つかるまで一時的に預かる子。名簿が失われ、家名を確認中の子。北境の戦や災害で身寄りを失い、長く暮らす子。
「一番難しいのは、名が複数ある子です」
マリベルが古い台帳を開いた。
「出生名、愛称、避難所でつけられた仮名、養家がつけた名。大人は善意で呼びますが、子どもの中で混ざってしまうことがある。自分がどの名で返事をすればよいのか分からなくなるのです」
私はページを見た。
そこには名前の横に、小さな注記が並んでいた。
「本人はリタを好む。旧名リディアに反応すると泣く」
「ヨハン。双子の兄と混同されると黙る」
「マイラ。養家候補のマリア呼びを拒否」
丁寧な記録だった。
侯爵家で私は、古い家名を守るために名前を扱っていた。ここでは、子ども自身を守るために名前を扱う。
似ているようで、まったく違う仕事だ。
「エレノア様には、まず衣類と薬帳の名綴りを見ていただきたいのです。それから、子どもたちの好きな呼び名を聞き取る手伝いを。急ぎません。信頼がないまま名前を触れば、かえって傷になります」
「分かりました」
私はうなずいた。
職員棟の住まいは、小さいが清潔だった。寝室が二つ、居間と台所、作業机のある明るい部屋。窓からは中庭が見える。リネリアは部屋に入ると、すぐに窓辺へ行った。
「ここ、リネのおへや?」
「しばらくは、ここがお家よ」
「おなまえ、ぬる?」
「もちろん」
私は鞄から小さな布札を出した。娘と一緒に、部屋の扉の内側へ縫いつけるためのものだ。
リネリア。
アンナが釘ではなく細いリボンを用意してくれた。扉を傷つけず、必要なら外せるように。そういう配慮が今は嬉しい。
リネリアは自分の名札を扉につけ、少し離れて眺めた。
「おかあさま」
「なあに」
「ここ、リネのばしょ?」
「ええ」
「おとうさま、ここまでとりにくる?」
私はすぐには答えられなかった。
嘘をついて安心させることは簡単だ。けれど、アルベルトが何もしないとは言い切れない。父親として会いたいと言う可能性も、侯爵として連れ戻そうとする可能性もある。
私は娘の目を見た。
「来るかもしれない。でも、勝手には入れないわ。お母さまも、アンナも、マリベル院長も、テオドール様も、リネリアの気持ちを聞く人たちがいる」
「リネ、いやっていったら?」
「大人が聞きます」
娘はしばらく考え、扉の名札に触れた。
「じゃあ、ここにする」
その言葉は小さいけれど、私にとっては大きな一歩だった。
夜、保護院の灯りが一つずつ消えていく中で、リネリアは新しい寝台で眠った。初めての場所だから何度か目を覚ますかと思ったが、扉の名札を確認すると安心したように目を閉じた。
私は隣の作業部屋で、保護院から預かった衣類の山を見つめる。
小さなシャツ、擦り切れた外套、片方だけの手袋。
そこには、ほどけた名前がいくつもあった。
これが私の仕事だ。
夫に認められなかった針仕事ではなく、誰かが朝、名前を呼ばれて返事をするための仕事。
私は針を持ち、最初の布を手に取った。
リタ。
赤い糸で、やわらかく。