軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第六話 北へ向かう馬車

北境へ向かう日は、薄い雨だった。

王都の石畳は濡れて黒く光り、馬車の車輪が通るたびに小さな水音を立てる。リネリアは窓の曇りを指で拭い、外を見ようとしていた。

「おかあさま、あめも、なまえある?」

「あるわ。春雨、霧雨、通り雨。降り方で名前が変わるの」

「じゃあ、これは?」

「旅立ちの雨かしら」

そう言うと、リネリアは少し考えてから、窓に小さく線を引いた。

「リネ、たびだちってかけない」

「長いものね」

「じゃあ、あめってかく」

娘は曇った窓に、まだ崩れた「あ」を描いた。すぐに水滴で消えてしまったが、それでも満足そうだった。

私たちはテオドール様の隊商に同行していた。ノルを含む保護院の子ども数人、従者、荷馬車、護衛。大げさすぎるのではないかと思ったが、北へ向かう街道は春でも荒れることがあるらしい。

テオドール様は別の馬に乗って先頭を見ていた。貴族の移動というより、領主の帰還に近い。途中の村で彼に気づいた農夫たちは、遠慮なく声をかけた。

「辺境伯様、今年の橋の修理は本当にやるんでしょうな」

「予算は通した。雪解けが落ち着いたら始める」

「去年もそう言って、役人が紙をなくしたって」

「今度は私が写しを三枚持っている」

そんなやりとりが聞こえ、アンナが小さく笑った。

「貴族に対する声のかけ方ではありませんね」

「でも、怖がられてはいないわ」

「それは良いことです」

私はうなずいた。

アルベルトは、使用人からも領民からも距離を置いていた。侯爵として敬われることに慣れすぎて、誰かが困っているときの声を雑音のように扱った。だから娘の小さな震えにも気づかなかったのだと思う。

昼過ぎ、隊商は街道沿いの村で休んだ。

村の共同食堂には、暖炉のそばに子ども用の椅子が置かれていた。店の女主人が、リネリアを見るなり柔らかいパンと温かい豆スープを出してくれる。

「お名前は?」

女主人が尋ねると、リネリアは私を見た。

私はうなずく。

「リネリアです」

「まあ、きれいなお名前。わたしはマーサ。うちの猫は黒パンっていうのよ」

「くろぱん?」

「黒くて、丸くて、よくこねるから」

リネリアは猫を探しに行きたそうだったが、知らない場所なので私の手を離さない。するとノルが、食堂の端から小さな声をかけた。

「黒パン、外の薪小屋にいる」

昨夜より顔色はよくなっていた。まだ痩せているが、毛布に包まれた病人ではなく、少し警戒心の強い少年に見える。

「ノル、しってるの?」

「前にも来た。黒パンは、魚の骨が好き」

リネリアは目を輝かせたが、すぐに私を見る。

「おかあさま、いってもいい?」

「私も行くわ。スープを飲んでからね」

その順番に、リネリアは素直にうなずいた。

旅の途中の小さな約束。食べる、温まる、見に行く。それだけで、娘の世界は少しずつ整っていく。

食後、薪小屋へ向かうと、黒パンは本当に黒くて丸い猫だった。リネリアがそっと手を伸ばすと、黒パンは逃げずに鼻を鳴らした。

「くろぱん、リネリアです」

娘が自己紹介をした。

猫は当然返事をしない。

それでもリネリアは満足そうに笑った。

その笑顔を見ていたノルが、ぽつりと言った。

「名前、言えるの、いいな」

私は彼の方へ向いた。

「ノルも言えるでしょう」

「言えなかったときがある。保護院に来る前、村が焼けて、父さんも母さんもいなくなって、誰も俺の名を知らなかった。俺も熱で、忘れかけてた」

六歳の子どもが淡々と語るには、重すぎる話だった。

リネリアは猫から手を離し、ノルのそばに立った。

「ノルは、ノル」

「うん」

「リネ、わすれないよ」

ノルは驚いたようにリネリアを見た。それから、少しだけ顔を伏せた。

「……俺も、リネリア、覚えた」

二人の間に、子ども同士の小さな約束が結ばれた。

私は何も言わなかった。大人が説明しすぎると、子どもの言葉は形を失う。今はただ、二人の名前が互いの中に置かれたことを見守ればいい。

その夜、宿場の部屋で、私はリネリアの旅用外套の名札を補強した。雨に濡れても糸が緩まないよう、裏から細い銀糸を渡す。

テオドール様が扉の外から声をかけてきた。

「失礼します。明日の行程を伝えてもよろしいですか」

私は扉を少し開けた。彼は部屋に入らず、廊下で地図を広げる。

「明日は峠を越えます。天候が悪ければ途中の監視小屋に泊まります。リネリア様が疲れるようなら、無理に進みません」

「隊商全体の予定があるのでは」

「あります。ですが疲れた子どもを無理に峠へ上げるほど、急ぎの予定ではありません」

その当然の判断に、私はまた少し驚いてしまう。

テオドール様は、私の表情を見て苦笑した。

「エレノア様。北境の旅で大切なのは、早く着くことではなく、全員が着くことです」

「いい言葉ですね」

「祖母の受け売りです。何度も聞かされました」

彼の祖母の話は初めてだった。尋ねようか迷ったが、リネリアが眠そうに私の膝へもたれたので、話はそこで終わった。

翌日、峠は霧に包まれていた。

馬車の窓から見える木々は、王都の庭木とは違って背が高く、枝ぶりも荒い。リネリアは少し不安そうにしていたが、ノルが「北の木は、みんな寝ぐせがある」と言うと、くすっと笑った。

午後、霧の中に石造りの門が現れた。

門柱には、グランヴィル領の紋章と、小さな文字が彫られていた。

帰る名を持つ者を迎える。

テオドール様が馬を寄せ、私たちの馬車の窓へ視線を合わせた。

「ようこそ、北境へ」

リネリアは私の手を握ったまま、門を見上げた。

「おかあさま。ここ、リネのなまえ、よんでくれる?」

「ええ。きっと」

まだ何も始まっていない。

けれど、ここには少なくとも、名前を迎えるための門があった。